嘘つきアーニャの真っ赤な真実
この本には3人の友達のお話が入っている。
いずれも米原が1960年代に通っていた在プラハ・ソビエト学校の同級生で、
ギリシャ系のリッツァ、ルーマニア系のアーニャ、ユーゴスラビア系のヤスミンカである。
それぞれタイトルが「リッツァの青い空」、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」、
そして「白い都のヤスミンカ」。
青、赤、白と、タイトルを聞くだけでも鮮やかな色彩が感じられる。
内容を読むと、「ギリシャの抜けるような青い空」や
「白い靄の中から浮かび上がる要塞都市ベオグラード」のイメージとぴったりあって、
いよいよ感慨深い。
特に「白い都の……」は、
少女のヤスミンカが学校で語るベオグラード(白い都という意)の歴史的説明から入って、
最後がユーゴ内戦のさなか、ベオグラードで30年ぶりに再会したヤスミンカと米原が、
白い濃霧に包まれた城壁を見るという構成。
感動的な中にも考え抜かれた筋立てで、心を揺さぶる秀作だ。
3作の中ではこれがもっとも完成度が高い。
しかし、本のタイトルに選ばれたのは「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」。
このネーミングはすごい。
「嘘つき」と「真実」という対比、ふつうは「真っ赤な嘘」のところを「真っ赤な真実」。
一体、「嘘つき」なアーニャがしゃべる「真実」とは、どんなものなのか、
それも、「真っ赤な」真実とは?
内容を何も知らなくても、思わず手にとってみたくなるではないか。
その上、文庫の装丁も「真っ赤」。
徹底的にコピーを盛り立てている。
米原万里がソビエトに深く関わる人だと知っていれば、
「赤」にはまた別の意味があるのではないかと、うがった見方も出てこよう。
今の若い世代には考えもつかないかもしれないが、
ベルリンの壁が崩れる1989年に近くなるまで、
日本にあっても「社会主義」は一つの理想であり、その旗頭は「平等」だった。
リベラルであるということは、多少なりとも左翼だった時代が続く。
日本で60年安保などが世を騒がせていた頃、米原はプラハにいた。
ソヴィエト本国ではなくチェコスロバキアのソビエト学校だったことで、
彼女は純粋培養の「社会主義一辺倒」にならずにすんだのかもしれない。
さまざまな国の事情を背負った友人たちとのつきあいは、
米原の国際的感覚を豊かにしたことだろう。
それでも、
共産党員としてプラハに赴任していた父のもとで、社会主義国に暮らしたのだから、
彼女は当然社会主義を誇りに思い、いいところをたくさん学び、体感もしたはずである。
だから、アーニャの家庭が貴族のような生活をしていることは許せない。
ありえないはずの現実を認めることは、社会主義の根幹を揺るがすことなのだ。
無条件に社会を信じて生きる子どもたちにとって、こんな矛盾はありえない。
幼い時、彼女はアーニャに向かって、自分の気持ちをうまく口にすることができなかった。
プラハ時代も、チャウシェスク政権下のルーマニアでも、チャウシェスクが倒れた後でも、
相変わらず特別扱いの贅沢な暮らしを続ける「アーニャ」の家の「真実」は、
ある意味本当に「真っ赤な」体制の「真実」でもある。
30年ぶりに会うアーニャの父に対し、
今まで心に溜めてきた思いをぶつけるように、特権的生活をなじる米原。
だが彼も米原の父も、
資産家の家の出身ながら、若き日に理想の社会を求め、地下運動に命を賭けてきた。
もしかしたら、自分の父親だってアーニャの父と同じになっていたかもしれない。
アーニャの父を責める米原の苦しみは、深いのだ。
一方リッツァはドイツにわたり、医師になった。
貧しい移民や低所得者にへだてなく診療しているのを見て、
米原はほっとし、あたたかい気持ちになる。
またヤスミンカに対しては、
内戦のユーゴで生きて再会できただけでもすばらしいのに、
つい「あなたの住まいは特権階級のためのものではないわよね」などと確認してしまう。
せめて自分の周りにあった理想がどこかに残っていてくれますように、という
祈りにも似た願いを感じた。
米原万里が自分の通った学校を訪ねる番組を、以前見た記憶があるが、
本の方がずっと心に残る。
懐かしさよりもっと激しく、
少女時代に培われた自らのアイデンティティを求めずにはいられなかった心情が、
よく出ているからだろう。
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