昨日に引き続き、トーマス・マンの作品を。
「ヴェニスに死す」は「トニオ・クレーゲル」と同じ文庫に収録されています。
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美しい話だった…。
「ヴェニスに死す」は映画にもなっているし、
バレエにもなっている(ノイマイヤー)。
だから読みながら、私の頭の中では
マーラーの、哀愁とクライマックスが織りなす音楽が何度もリフレインし、
閑散として光輝く白い砂浜とリクライニングのベンチとがイメージされてはいたが、
文章は、どんな映像より、どんな音楽より雄弁に
「グスタフ・アシェンバハ」という老作家の心の高揚を鮮やかに描いていた。
そして私は思い出していた。
初めて熊川哲也のバレエを生で見たときの感動を。
それを小説にしたいという、大それた、でもそうせずにはいられないほどの衝動を。
気がつくと、ノートに文字が連ねられていったあの濃密な時間を。
文字にしながら、自分の中にある跳躍のイメージをこの白いノートに閉じ込めようと、
完全な形、自分が観たままの形で固着させたいと願った、あの気持ちを。
あるいは、
何度も劇場に通いながら、
手を伸ばせばそこに彼がいるけれど、
触れてはいけない、そして絶対に触れることのできない結界が、
舞台と客席の間にはある、と思ったあの日を。
トーマス・マンがこの「ヴェニスに死す」を書いたのは、37歳。
私が熊川を初めて生で見たのは、35歳の時だった。
アシェンバハは50歳である。私も、今、50歳。
一見、この話は老醜を抱えた男が、若くて美しい少年ダジウにこがれる話と映るかもしれない。
でも、
トーマス・マンははっきり書いている。
若々しく完璧な肉体には、…なんという精妙な思想が表現されていることだろうか。
目に見えぬところで働きつつ、この神のごとき人間像を創造しえた厳粛にして清純な意志―
この意志は芸術家たるアシェンバハにとっては既知の、馴染のものではなかっただろうか。
冷ややかな情熱をたたえながら、言語という大理石の大塊から、
精神が眺め見たものを、精神的な美の塑像として鏡として人間たちに示し見せる、
そのしなやかな形を創りだすとき、
この意志はまた彼の内部にも働いていなかっただろうか。
アシェンバハは、タジウの中に神を見たのである。
その神は、自分の中にも宿っていた。
自分にないものに惹かれたのではない。自分と「同じ」神の申し子だからこそ惹かれた。
ひと言も言葉を交わすことなく、
ただみつめるだけのひと夏の逢瀬。
そこから紡ぎだされた人生最後にして最高の散文。
これは、一人の作家が憧れた、究極の天国への階段の物語。
ものかきとしては、ぜひ「その瞬間」にあやかりたいものである。
何度も、何度でも読みたい美文でした。
チョー、おすすめです。
しかし、
ヴェニスという街は、一体どんだけの人々を骨抜きにしたのでしょうか?
水没する前に、
絶対一度は行って見なければ、と思いました。
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