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「九十三年」

ヴィクトル・ユゴーといえば、『レ・ミゼラブル』。
そして『ノートルダム・ド・パリ』。
どちらも大好きですが、
ユゴー好きの人のコミュニティをちょっとのぞいたら、
「『九十三年』が好き!」という人がけっこういたんです。
『九十三年』って、何??
「九十三年」とは「1793年」のこと。
1789年にフランス革命は勃発したのですが、
一日暴動があって王政がひっくり返って、
翌日から平和になったってわけじゃございません。
ルイ16世やマリー・アントワネットが捕らえられてからも、
王党派との内戦があったり、
他の国からの干渉があったり、
共和派の内部でも穏健派から急進派へと権力が移り、
恐怖政治へと突入、
きのうまで「フランス」を動かしていた英雄が、
次の日は断頭台へ。
Aを断頭台に送ったBも、翌週には断頭台送り、というふうに、
政局はめまぐるしく変わっていくのでした。
そうした狂った季節の中でも、
「93年」は特別な年なのだ、とユゴーは考えた。
ノルマンディー地方を中心とした王党派の大きな反乱、
ロベスピエール・マラ・ダントンの三傑のそれぞれの思いと行く末、
それらを通し、
「93年」の理想と現実、友愛と冷酷を、
一つの物語の中に結界させて
「革命」とは何なのか、人間の営みとは何か、
時代は正しかったのか間違っていたのかを、厳しく問うたのでした。
非常に政治的で生臭い話でありながら、
突然赤子のみずみずしさをぽんと提示するような
チェンジ・オブ・ペースが見事。
テンポのよい詩的な文章と、
ギリシャ神話など古典の一場面になぞらえるなど、比喩の豊かさ。
そして、
次々と起こるドラマチックな事件。
容赦ない冷酷さを見せ付けた男がふと垣間見せる優しさや、
正義の人だと思っていたのに、ずる賢さが背中にべったりついていたり、
時には指導者の孤独、
あるいは無学な者が経験豊かな賢者であることへの驚き、
などなど、
登場人物は皆、微に入り細に入り丁寧に描かれて
ありとあらゆる立場と階層の人たちにとって
「革命」とは何だったのかが伝わってきます。
特に終盤、
3人の幼子の命をめぐっての攻防は、手に汗握ります。
末っ子の金髪の巻き毛の女の子が、
無邪気に独り言を言っては笑うところなどを挿入しているので、
「あの子はいったいどうなるの~???」
ユゴーは、
「どんなに高邁な理想をくっつけたって、人の命に鈍感ではいけない」と言って
「革命」の冷酷さ、愚かしさを糾弾します。
でも一方で、
「その残酷さがなければ、革命は完遂されないのだ」と革命を擁護もするのです。
王党派も共和派も、
93年に生きた人々は誰も、
ただ冷酷だったり、ただ優しかったりでは1秒も生きていられなかった。
自分の中に矛盾を抱え、十字架を背負い、
身を引き裂かれながら、一歩一歩進んだ。
血を流し、泣きながら、苦しみぬいて進んだ。
そのおかげで、今がある。
私たちが、「人権」を当たり前のように要求できる社会に暮らせている。
人間とは決して完璧なものではない。
完璧でないのに、答えを出さなければならない。
よきものも悪しきもののために捨て、
悪しきものもよきもののために使い、
人を殺し、人に殺された先人の
苦悩する魂と累々たる死体に
敬意を評する物語である。
政治に、責任をとろうとした人々が
この物語の中には、いた。

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