この前、私は「カラマーゾフの兄弟」を
「3000ルーブルと女と神」の三題話というとらえ方をしました。
これは、間違ってないと思います。
でも、
一番肝心なことが抜けてますね。
それは「父殺し」です。
ごうつくばりで、女好きで、悪態つきで、
そんな老人・フョードルが、殺される。
父・フョードルと、女(グルーシェニカ)を争い、
「殺す、殺す」とわめきたて、
金属の杵(きね)を片手にフョードルの元へ乗り込んだドミートリー。
見咎められて、使用人のグリゴーリーを
その杵でめった打ちにしてしまいます。
その直後、
父からふんだくろうとしていた3000ルーブルに匹敵する金を、
血みどろの手でわしづかみにして大判盤振る舞い。
宿場あげてのどんちゃん騒ぎをやらかします。
どうみたって、状況証拠が指しているのは
「犯人はドミートリー」。
ところが、彼は否定する。
「殺意はあったが、ギリギリのところで神様が助けてくれた。
俺は悪人だが、親殺しじゃない!」
これを、12人の陪審員が裁くわけですよ。
ドミートリーの弁護人が、けっこうやり手で、
「状況証拠」のアナを次々と指摘、
「彼の行いの数々はほめられたものではないが、父親は殺していない」を力説。
傍聴人席は、
「こりゃ、有罪にするのは難しいだろう」という空気に包まれる。
そこで出た陪審員の評決は、なんと「有罪」!
真犯人の「告白」を聞いて(読んで)いる読者にすれば、
いわゆる「冤罪」事件の目撃者となってしまうのです。
その上、「カラマーゾフの兄弟」は、
冤罪の理不尽さや残酷さを告発する物語ではありませんでした。
ドミートリーは「実行」はしていませんが、「殺意」を抱いたことはある、
その一点で、裁判の結果を甘んじて受けます。
「殺意」によってさばかれるのは、
ドミートリーだけではありません。
真犯人から「あなたの手足となった」と言われる次男のイワン。
「やれ」と言ったわけではない。
それなのに、
「あなたは心の中で、それを望んでいた」と言われたイワンは、
グウの音も出なくなって罪の意識にさいなまれ、
いつしか神経を病んでしまうのです。
父親を軽蔑していた。
早く死んでほしいと思っていた。
今、グルーシェニカと再婚なんかされたら、
元も子もなくなる・・・。
今死ねば、遺産がころがりこんでくる。
ドミートリーが殺して捕まれば、彼の遺産相続権はなくなるし。
倍増だ。
そんなふうに思っていた。
イワンは、自分を「有罪」だと思う。
「実行」はしていないけれど。
ストーリーを追っているときは、
ミステリー小説を読むように、
「そうとわかる証拠や伏線は、どこに隠されているか」を考えながら
読み進んでいました。
そのゴールが「冤罪」。
真犯人にも嫌疑はかかりますが、証拠不十分です。
一文一文に出てくるものや、表現に注意しつつ、
「一体誰が真犯人なのか?」を求めていた身にとっては、
なんだか肩透かしをくったようで、
消化不良。
胸にもやもやがつかえます。
でも、
今、読み終わって、
亀山郁夫の「解題」も読んでみると、
この「父殺し」というテーマは、
単なる「殺人事件」ではなく、
もっと心の奥深くにある
「親との対峙」なのかもしれないとも思うのです。
ドストエフスキーも、
実は父親を突然亡くしています。
強権な地主だった父は、領地のはずれで、農奴に殺されたのです。
しかし、証拠はなく、事故扱い。
ドストエフスキーは、ペテルブルグの工兵学校にいました。
「親孝行 したいときには 親はなし」といいますよね。
そばにいすぎて、干渉されて、押し付けられて、人生捻じ曲げられて、
底の浅さが透けて見えるような、俗物人生歩んでるのに大きな顔して、
うざったくて、重たくて。
そんな「親」から逃げたくなる瞬間は、
きっと誰にでもあるのではないでしょうか。
でも親に死なれてみると、
いかに自分が親に理不尽なことをしていたかを痛感するものです。
「俗物」に見えたけど、矛盾だらけの世間と折り合いつけながら、
けっこうがんばってたこともわかってきます。
「あの時、俺が殴ったのが原因じゃないか?」
「あの時、家出して心配かけたせいじゃないか?」
「あの時、なんでやさしい声かけてやれなかったんだろう?」
「あの時、どうして返事一つしなかったのか」
親の死が自分のせいじゃなくても、
自分のせいに思えること、たくさんあります。
憎しみの霧が次第に晴れていって、
思いもかけず、自分が親を慕っていたという事実を突きつけられる。
そのとき、
心が痛むのです。
そして、
もう、取り返しがつかない、と思うと、
どうしようもなくやるせない。
ドミートリーは、罪は引き受けたけれど、その分心は晴れやかです。
「やってない」と自分の良心に言え、
愛する人たちが、それを信じてくれている。
そこに魂の安息がある。
イワンは、人に裁いてもらえなかった分、
自分の良心と対峙しなくてはならないのです。
それも、
彼は「神」に信を置いていない。
だから、「神」に許してもらって楽になることができない。
自分の知りたくない自分と真っ向対決する。
それに、イワンは耐えられるのか?
真犯人もそうです。
ドストエフスキーの小説に出てくる罪びとは、
最後は自分の罪の大きさに潰される。
ドストエフスキーは、暗い、とか、陰惨とか、
そういうふうに思われがちですが、
こう考えてみると、
彼は非常に人間の良心を信じていたのではないだろうか。
そんなふうに思いました。
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