100年前の今日、1909年(明治42年)6月19日、
小説家・太宰治は生れました。
そして1948年(昭和23年)の同じ日に、
太宰治は玉川上水の土手で心中水死体として発見されます。
死後数日経ってのことでした。
以来、
この日は彼の作品の名前にちなみ「桜桃忌」と呼ばれています。
私が太宰治の小説に出会ったのは、
今から36年ほど前になります。
高校1年のとき、
(私は高1を2回やってるんですが、最初の高1のとき)
国語の先生が太宰が好きで、
教科書のほかに太宰の短編を刷ってきて、
それについての授業をしたんです。
「黄金風景」というものでした。
小さな診療所の待合室で知り合った若い奥さんが
胸を病んだ夫に付き添っている人で、
ある日夫の病気が恢復に向かい、
「おゆるしが出たの」と頬を赤らめよろこんで家に帰る
日傘をさしての後ろ姿の躍動感を
「黄金風景」といって寿いだ、小作品。
私の目の中に、陽光を受けて輝く白い日傘がくるくる回る風景が
この題名を思い出すたびに今も浮かんできます。
先生は
太宰好きが高じて文芸評論家になった奥野健男という人の、
太宰治論も刷ってきて、
アツくアツく語ったものです。
それが、私と太宰との出会いだったかもしれません。
最初の高校1年の夏までにほとんど太宰は読み終わった、ということは、
5ヶ月くらいで(文庫のものは)読破しちゃったんですねー。
私も、何かに憑かれたようにのめりこんだわけです。
ただ最後のほうは、
すでに太宰のことはわかったような気でいて、
読み方も、
どこか「読みつくす」ことが目的となり、
雑に斜め読んでいた節があります。
「パンドラの匣」も
そんなころ、一気に読んでしまったものの一つで、
それだけにあまり印象になかった、ということは
先日ちょっと触れましたね。
今回、
河北新聞に当時と同じように再連載されている第一回目を
私は初めて読むように、丁寧に読んでいこうと思い立ちました。
およそ1400字、原稿用紙にして3枚半の文章は、
手紙文という形式ということもあって、声に出して読むと
またいっそう文字に託された思いがしみ入ってきます。
戦後まもなく書かれたこの小説は、
「あの日の正午」「天来の御声に泣いておわびを申し上げたあの時」
から始まった、
「世界の誰も経験した事のない全く新しい処女航海」のゆくえを
「どんな性質な出帆であっても必ず何かしらの幽かな期待を感じさせる」ものとして
「パンドラの匣」になぞらえている。
天地がひっくり返ってしまい、
今までの良いが悪いに、悪いが良いにすり替わり、
何を基準に生きていいのかわらかず、
一体日本は、そして自分たちは、これからどうなるんだろう?…と
その茫洋とした不安に立ち尽くす日本人たちに、
東北のマハラジャの息子で、
「金持ちですみません」気分で共産主義にはまり、
ホネがないから活動は続かず、
自分の情けなさをヤクで紛らわし、
女にすがって泣き、
何かといえば「死のうか」と思いつつでも生きてきた
そんな太宰治が、
昭和20年10月22日に、
戦後たったの2ヶ月しか経っていない、
いまだ進駐軍の占領下にあった頃に、
新聞を通じて人々に呼びかけた文章は
しかし、その匣の隅に、
けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、
その石に幽かに「希望」という字が書かれていた、という
ギリシャ神話の一説に触れられて次回に続けられています。
「あの日」を境に
泣いて泣いて、そしてすっとからだが軽くなってちがう男になり、
胸を病んでいることを初めて人に明かした男が
これから
「幽かな希望」を頼りにいかに生きていくか。
当時の人々はきっと続きを、
早く読みたいと思ったことでしょう。
小説の冒頭部分に「読みたい」の地雷を滑り込ませ、
さらに「何なんだ?」の題名の訳もしっかり入れ込む。
やっぱり、太宰って、すごい作家です。
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