「舞台みたい」
「どんでん返しがすごい」
「作りこんである」
・・・などなど、あちこちで話題になっていた「アフタースクール」。
ようやく見てまいりました。
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母校で教師をしている神野(大泉洋)は、中学からの親友・木村(堺雅人)と今でも仲がいい。
やはり中学の同級生・ミサ(常盤貴子)は臨月。
ミサが木村の朝食を作り、木村は神野の車を使って出勤、
神野はミサのためになにくれとなく世話をやく、という中で事件は起こる。
木村の失踪。それも、ミサの出産の日に!
木村の失踪にはどうやら「女」がからんでいるらしく、
木村の上司やらヤクザやら、
いろんな人物が木村の居所を探しまくる。
その尖兵として雇われたのが、北沢(佐々木蔵之介)だ。
借金漬け、ヤバイ仕事で食いつなぐチンピラである。
北沢は、手始めに卒業生名簿から木村の居所を探そうとして、木村の卒業した中学校に行き、
「木村の同級生・島崎」を騙(かた)るが、
「ホンモノの木村の同級生・神野」が母校の教師をしているのだから、話がヤヤコシクなる。
北沢は「島崎」として同級生役を続けながら、神野とともに木村の行方を捜すハメに。
ぽーっとした神野、寡黙な木村、海千山千の北沢。
この構図は、
ある時点から、ガラっと様相が変わっていく。
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サスペンスや謎解きの要素がある作品には、
3つの種類があると思います。
一つは、観客にはネタがばれてて、知らないのは登場人物だけの場合。
たとえば、今上映されている「ザ・マジックアワー」はそうですね。
「刑事コロンボ」もそう。
もう一つは、観客が登場人物と一緒に謎解きをする場合。
もっともオーソドックスなパターン。
この時は、事件は衝撃的に起こるけど謎解きのヒントはあちこちに置かれていて、
出演者より先に謎が解けたり、「あ、それであの時!」みたいに後でわかったり。
「キサラギ」がいい例です。
最後の一つが今回の「アフタースクール」があてはまる、
作り手が最初から「観客をだましてやろう」と思っている場合。
わざと観客への情報を少なくして、(あるいはあいまいにして)、
観客をミスリードしていく。
「登場人物と一緒に」は前のパターンと似ているけど、
この場合、「登場人物全員」の視点はもらえない。
物語を上からのぞいているような錯覚をもたせられたまま、
実はある一人の視点でしか状況を判断できない、というのがミソ。
だから話の途中で「え~っ?」という混乱があり、
そこからギャップのつじつまを合わせながら終盤へ。
最後は、「もう一度、最初から見てみよう!」みたいな。
この話でよくできていたのが、「メメント」ですね。
5分前のことは忘れてしまう男が、妻を殺した犯人を追っていこうとする物語です。
気がつくと、冷静さを失って主人公と一緒にその場その場の条件だけに反射していて
迷路に陥ってしまいました。
「アフタースクール」も仕掛けはよくできていたと思います。
思いっきりだまされるし。
けれど、あんまりスッキリしません。
「メメント」のような「どこでどうなったのか答えが出ない」スッキリのなさではなく、
どうだまされたかわかったって、なーんかスッキリしない。
なぜか。
もらった「視点」がどんどん置き去りにされちゃうからじゃないかな。
観客は、まず誰に感情移入するかといえば、やはり主役です。
この場合は、神野(大泉)。
途中まで、観客は、神野とともに謎の中をさまよっている。
ところが、途中で知るんです。
私たちに与えられていた視点は神野のものではなく、他の人物のものだったということを。
その時点で、パッと人物乗り換えられるか、感情移入できるかっていうと、
なかなか難しい。
この人、主人公に勝るとも劣らぬ魅力を持ってる?
そのくらい、人生感じられる描かれ方してる?
けっこう難しいけど、なんとかそちらの視線に移ってついていきましょう!
・・・と思った途端、
その人物は、スクリーンを去ってしまうんですよ。
すると、もはや私たちの居場所は失われてしまうわけで。
少なくとも、私はそうだった。
後の説明は「崖の上の犯罪告白シーン」と何ら変わらぬ、オマケでしかなかった。
そこが、
作品の吸引力として弱かったかな、と思います。
救いは、エンディング。
どんなにだまされても、悪人にだまされなかったということが、
ちょっぴり気持ちをアップさせました。
そういうことなら。・・・って思わせるお話です。
*クレジットが出た後にも映像が流れますけど、
見逃したからって、それほど悔しがるほどのモンじゃありませんでした。
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