浦沢直樹原作の漫画「20世紀少年」は、
その構想の大きさと、1970年代の緻密な描写によって、
連載当初から大きな衝撃を与えた。
1970年前後に青少年時代を生きた者であれば、
それはそのまま自分の物語でもある。
SFでありながら、リアル。
リアルではあるが、決してノスタルジーではない。
これが、漫画「20世紀少年」の力だ。
今回、この作品が実写化された。
「20世紀少年」三部作の第一部が、現在公開中である。
原作者の浦沢氏が脚本を書いたこともあろうが、
堤幸彦監督は、
「顔の似た配役」に腐心することから始まり、
シーンのコマ割にも原作のアングルを生かすという念の入れよう。
ただ、
「漫画のファンを裏切らないため」の徹底した「原作原理主義」は、
果たして吉と出たか、凶と出たか。
映画は三部作構想なので、
ネタバレを避けようとすると、ストーリーについてここに書けることは少ない。
ここでは導入を中心に紹介し、
そのあと、私の思いを述べたいと思う。
ただし、私は原作未読のため、
一切の予備知識なしである。この「第一作」と、パンフレットだけを見て書いた。
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ケンヂは、一時期ロックミュージシャンをやっていたが、
今は売れないコンビニの店長。
実家の酒屋をコンビニにして、
母と、姉が置いていった小さな姪っ子と、身過ぎ世過ぎで暮らしている。
そこに転機がやってきた。
久しぶりの同窓会で、
最近ちまたで社会問題になっている宗教団体のマークは
「昔お前が作ったものじゃないか?」と関係を聞かれるのである。
そんな昔のことなど、すっかり忘れているケンヂ。
「そういや、あんなことしたな、こんなことしたな」などと、
当時の仲間と酒を酌み交わしながら、
ケンヂは少しずつ「マーク」の記憶を辿り始める。
機を同じくして近所のお得意さん一家が突然失踪。
幼なじみは転落死。
ケンヂの周りで、「マーク」をめぐる事件が次々と発生する。
かつて秘密基地で「俺たちが地球を守るんだ!」と誓った仲間とともに、
ケンヂは自分たちの「マーク」を取り戻すことができるのだろうか?
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少年時代、
友達と空き地の「秘密基地」で書いた「よげんの書」の内容が、
30年経って現実になっている。
「自分が、ただのアソビで書いたものが、なぜ? 誰によって?」
力いっぱい楽しく、しかし何の意味も考えずに過ごした過去の行動に
30年たって責任を負わされる、
かなりしんどい話である。
それも、
「悪の世界征服」からこの世の中を守らなくっちゃいけない。
しがないコンビニ店長が、
「地球を救えるのはお前しかいない」などと言われてしまうのだ。
「何でもない人」が「ヒーロー」になる話というのは、
けっこうよくあるパターン。
そういう場合、
武器だの超能力だの、秘密組織だのロボットだの国家だの、
とてつもない「脇」が控えてシロートの彼を支えるのが普通。
ところが
ケンヂには何の力もない。
一方で、テキは国家権力や警察まで巻き込んで、ものすごい力に発展する。
対抗しようとするケンヂは「テロリスト」扱いである。
この劣勢をどうひっくり返して、
ケンヂ(とその数人の仲間達)は世界を救えるというのだろう。
原作者であり脚本も書いている浦沢氏、1960年生まれ、
実写映画のメガホンを取った堤幸彦監督は、1955年生まれ。
私も同様の世代だから、
アポロ計画や、アベベや、大阪万博や、T-rexなど、
ケンヂの子ども時代の描写には思わず自分を重ねる。
そして、
20数年後に開く同窓会のシーンにも、身につまされるものが。
そのあたりが非常にリアルに描かれているだけに、
直近の過去「2000年」が、あまりに絵空事すぎてついていけない。
「テロリスト」と言われ、「地下に潜った」ケンヂたちが、
それも非力な面々で隙だらけな仲間が数人しかいないのに、
「なぜ」「どうやって」
世界中を恐怖に陥れている巨大な組織とタイマン張って戦えるのか。
20巻以上続くという原作では、
もっと緻密に描かれているだろうとは推測するが、
映画しか見ていない私には、「?」が飛び交うばかりである。
また、
主要人物であるケンヂや幼なじみはまだしも、
「その他大勢」の人間の動向に、理由付けが少なすぎる。
「トモダチ」をボスとする宗教団体は、なぜ信者の気持ちをとらえたのか。
彼らがステレオタイプに「トモダチ」を盲信するのはなぜか。
そのあたりの説明が、まったくない。
「世界征服」との関係も希薄。
あと、
一つ気になったのは、
単純すぎる「人の死によう」の描写。
爆破によって破壊された建物にいた人々は?
細菌は伝染するのかしないのか?
細菌を撒いていた機械を爆破したら、その細菌は蔓延しないのか?
あんなに大きい爆発があったのに、
(画面では、ほとんど原爆並)
どうして人々は生きていられるのか。
そもそも、ケンヂたちと「機械」と警察のほかにこの街に人はいたのか?
血を流して倒れている累々たる死体の山を見ても、
そこからは嗚咽も死臭も湧き上がってこない。
2001年9月11日、
あの「9.11」をテレビ中継で見て「ヒトゴトのようだった」という人がいる。
中東での爆撃だって、カウチポテトで見られてしまう世の中だ。
そういう世の中だからこそ、
フィクションである映画がそんな「ヒトゴト」を見せてはいけない。
私はそう思っている。
「実写」であるからには、出てくる人間は生身の肉体を持ってナンボだ。
20XX年でもなく、30世紀でも宇宙世紀○○年でもなく、
2000年に起こると設定したからには、
これは私たちの物語である。
第二作以降、
私のこうした気持ちに何かしら答えがあることを、期待してやまない。
「人間、負けるとわかっていても、闘わなくちゃいけない時がある」
という、幼いころのケンヂのセリフが
どう生きてくるのかも、これからを見守りたい。
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