「グラン・トリノ」はクリント・イーストウッドが
主演と監督を同時にこなしている。それも78歳という年齢で。
「ハリウッド映画でクリント・イーストウッドの映画なら見てみようかな」
という方には、強くおすすめだ。
緊迫感はあるし、同時に静かな洞察と深い人生経験も光る、秀作である。
しかし、それにしても各方面絶賛の嵐。
膨大な予算を使い、
だからこそヒットさせなければならない使命を帯びたハリウッド映画にして
娯楽に徹するというより人々に感銘を受けさせ
何かを考えさせずにはいられない作品なのだから、
「絶賛」は当然のことかもしれない。
パンフレットには、新藤兼人・木村威夫(映画監督)、
鳥越俊太郎(ニュースキャスター)、
内田樹(思想家)、蓮見重彦(映画評論家・元東大総長)などが寄稿し、
いずれも高く評価している。
だから、これから私が言おうとしていることは
トンチンカンの極みなのかもしれないし、
非常に無礼で、映画のことなど知りもしないで吐く暴言なのかもしれない。
それでも、正直に言おう。
ストーリーに目新しさはない。
誤解をおそれずにいえば、
この程度の物語は、今までにたくさんあったと思う、と。
・頑強な偏見を持った差別主義者が、
今まで「観念」で差別してきた人々を「直接」知ることで理解を深める話。
・自分の子どもとどう接してよいかわからない親が、
他人の子どもとの間で親交を深め、父親としての振る舞いに目覚める話。
・直接的な暴力ですべてを解決してきた男が、
それ以外の力を頼んで行動しようとする話。
・スラムやゲットーの中で埋もれまいとする純粋な若者が、
這い上がろうと努力すればするほど不幸な目に遭う話。
・死期の迫った男が、自分の人生の清算をしようと動き出す話。
・神に不信を抱き、教会から遠ざかっていた男が、
ある日、重大な行動の前に、決意をもって教会へ赴く話。
・経験不足の聖職者が、頑固者の年配者との交流のなかで、成長していく話。
私は映画を見ながら、「次はこうなるだろう」「次はAかBになるだろう」と思い、
そしてほとんどその推理の通りに話は運んだ。
だから、
「どうやったらこんな映画が作れるのか?」という評には疑問である。
(追記:予告編などで紹介されていたニューヨークタイムズ紙評で
「どうやってあんな傑作を生み出すのかわからない 」が正確。)
今までどんな映画を観てきたのか?と問いたい気持ちだ。
しかしながら、
私はこの映画を別の意味で高く評価している。
それは、
これがアメリカを舞台に、
アメリカで、アメリカの白人監督によって作られ、
それが興行的にも迎え入れられた、という点である。
侵略し差別することにかけてはアメリカも日本も同じだが、
日本人は戦争に負け、占領され、差別されたこともある。
移民して苦い経験をもった方々も多い。
だから
こうした物語は比較的容易に理解することができる。
しかし、
一部のアメリカ人には難しい。
クリント・イーストウッドという
かつて西武劇のヒーローや問答無用の刑事として
一世を風靡した「アメリカの男の中の男」が
落ちぶれて、うらぶれて、それでも矜持を高く持ち、
当然のように白人以外を下に見た生活を続けながら、
少しずつ変わっていくさまは、
同じくらい偏屈な人々にとってみれば
アンビリーバブルな光景のはずである。
そこに
監督の仕掛けた罠が、「神様」なのだ。
暴力の連鎖から抜け出すには、いったいどうすればいいのか。
自分たちが謳歌したような古きよき時代を未来に復活させるために、
ブツブツ口の中で憎まれ口をたたく代わりに何をすればいいのか。
映画が提示した解決法は
「原罪」に対する「懺悔」と「犠牲」である。
「同じ人間なのだから、差別はいけない」などという「言語」は
外国語のようで何を言っているかまったくわからない人々にも
聖書にある言葉ならわかる。
クライマックスに出てくる「十字架」に
心動かされないクリスチャンはいないだろう。
ここが非常に巧妙なのである。
もしかしたら、「いきついてしまった真実」なのかもしれないけれど。
そして……。
クリスチャンではない私が
この映画でもっとも感じ入ったセリフはこれである。
「命令されたからではなく、自分でやったことだからこそ、おそろしい」
戦争という異常な状況下であったとしても、
責任を他に転嫁せず自分の行動に責任を持とうとする主人公。
たとえ神が赦してもこの自分が赦せない、という強い罪の意識。
彼の苦悩の深さとともに、人間の尊厳を失うまいとする気高さを感じ、
こんなふうに逃げずに自分と向き合えたらいいな、と思った。
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