ある日仕事から帰ったら、家にいるはずの子どもがいなかった。
「外で遊んでいるのかしら?」
「もう帰ってくるわ」
でも、胸騒ぎ。
警察に電話すると、
「そのうち帰ってきますよ。規則により、朝までは動けません」
そして、朝。
帰ってこない。どこにもいない……。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
子どもが帰ってこないことの辛さは、
プチ家出(といっても、けっこう深刻)をされたことのある私には
まさに胸が痛くなるほどよくわかる。
生きてるのか、死んでいるのか。
何もする気が起きないのに、
朝はまたやってくるし、食事のしたくはするし、
仕事には行かなくちゃならないし。
「そんなことはどうでもいいこと」なのに、
「どうでもいい」日常は淡々と進み、「どうでもよくない」ことは全然進まない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数ヶ月してようやく自分のもとに帰ってきた「わが子」が
自分の子じゃなかった。
でも、警察は「あなたの子だ」という。「混乱しているだけだ」という。
こんなこと、あるんだろうか。
実話だから、あったんでしょう。
どうしてこんな理不尽なことがまかり通ったかといえば、
きっとそれは、「彼女」がシングルマザーだったからだと思う。
映画では、電話交換手のチーフとして働いている。
閑静な住宅街の一軒家に、息子と二人で住んでいる。
でもきっと
周囲は彼女を本当には受け入れてなかったんだろう。
息子は父親のことで、いじめられもしている。
彼女が「この子は私の子じゃない!」と言ったとき、
「そうよ、違う!」とすぐさま声を上げた人がいなかったというのが、
なんとも不気味なのだ。
彼女に味方する牧師さんでさえ、
「この教会の信者ではないが」という言い方をする。
職場では地位もあり、人望もあるかもしれないが、
地域のコミュニティからは切り離されて生活していた
孤立無援の女性なんだ。
だから、
警察もなめてかかる。
娼婦も、シングルマザーも、赤子の手をひねるごとき容易さで
精神病院にだって入れてしまう。
この話は、男性と女性では感じ方が違うかもしれない。
ひたすら子どもを探し続ける母親の、
意地のようなもの、
それが生きがいのようになってしまう経緯は
男性にはこっけいに映るかもしれない。
でも、それが母というもの。
映画に行く約束を果たせず、子どもを一人留守番させてしまった自分に対する
永遠の贖罪の旅なのだ。
- 映画
- 14 view
この記事へのコメントはありません。