これは稀代の反戦映画、というより、反国家的映画である。
「硫黄島からの手紙」が、日本人にとって「忘れてはならない過去の記憶」であるのに対し、
「父親たちの星条旗」は、今、アメリカ人がつきつけられている「国家と個人」を問うている。
軍艦から誤って落ちた兵士を見捨てる国家。
必死で白兵戦を戦い抜く兵士を誤爆で殺す国家。
戦地から帰ってまもない兵士に対して、
国債集めの記念式典で再び戦闘服に着替えさせ、
爆発音と焼夷弾の光と見まごう花火の嵐の中、
張子の「山」に再び「旗」を掲げるパフォーマンスを要求する国家。
隣りで死んでいった者たちのための純粋な思いは、
国家によって巧妙に、残酷に利用され、そして捨てられていく。
それは1枚の写真によって「英雄」にされてしまった60年前の3人も、
ベトナムやイラクで戦った大勢の兵士たちも同じなのである。
「星条旗」には、日本人はほとんど出てこない。
ほんの小さな島の中に蟻のごとく地下壕を掘りめぐらし、
3日間の爆撃でもほとんど死ななかったという2万人の日本兵が、
どこからともなく狙ってくるその恐怖を、アメリカ人の眼から描いたという効果は絶大だ。
しかしそれ以上に、
「敵は誰か」など、製作者にとっては何の意味も持たなかったと言える。
国が戦えというから、軍隊に入った。
送り込まれるのは太平洋の島なのか、砂漠なのかもわからない。
どんなやつと戦うのかも、どんな戦いが待っているのかも知らない。
気がつけば、きのうまでふざけあっていた戦友が血みどろで死んでいる。
恐怖と憎悪で、自らも人間を殺しまくっている。
そんな地獄を生き抜いて還ってくれば、
お偉方は銀のフォークで毎晩うまいものをたらふく食っているというギャップ。
「何のために戦ったのか?」
島の陥落が、そのまま本土の危機につながる日本兵の方が、
よっぽど戦う理由があったはずだ。
彼らは「家族のため」でもなく「戦友のため」としか言えなかった。
PTSDに苦しむ帰還兵たちの問題は、
アメリカにとって、「過去」のものではない。
この物語の原作『硫黄島の星条旗』は、英雄の一人「ドク」の息子が、
父の死後、「なぜ父は沈黙を守ったのか」を知りたくて書き始めた(上の写真は表紙)。
病床で年老いたドクが「何も話さなくて悪かった。いい父親ではなかった」と告白する場面。
日本でも、戦場から還った多くの兵士たちは、
自分たちの経験をほとんど話さない。
ひどい経験だったから。わかってもらえないから。
自分に一つの非もない戦いなどないから。
しかし、語ってほしい。伝えてほしい。
そうでなければ、また、同じことが起きるかもしれない。
「英雄は、それを必要とする社会があるから作られる」という言葉には、重低音の響きがある。
自らを正義と信じ「世界の警察」を自認し、ハッピーエンドと英雄を好むアメリカで、
この映画が作られたことは、ほどんど奇跡に近いと思った。
それも「どのくらい売れるか」が重要なハリウッド映画として、である。
興行不振とも伝え聞くが、最初から大ヒットするジャンルではない。
ヒットメーカーのイーストウッド、スピルバーグが作ったことで、
すでに人々は関心を寄せる。「メジャー」になるのである。
評価は高い。原作の本もヒットしたという。
恐るべし、アメリカ。
もちろん、テーマ性だけでなく、作品としての質も高い。
現在、戦時中、戦後という時間の前後、
アメリカ本土、硫黄島という場所の移動。
非常に多角的で複雑な展開でありながら、無理がない。
「戦いの虚しさ」を描きながら、「戦った人」への敬意を忘れない作り方は、
製作者の誠実さを物語る。
脚本のウィリアム・ブロイレスJr.は、ベトナムにも従軍している。
アメリカはまだまだいける。
自由の国アメリカは、健在だった。
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