夕べ、NHKの土曜ドラマ「リミット」最終回。
脚本は遊川和彦である。
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梅木(武田鉄矢)は自分の婚約者・ともよを殺された刑事。
今は収監されているその殺人犯・黒川(ARATA)への憎しみを18年間たぎらせ、
「出てきたら殺す」と公言して憚らない。
その梅木と組むことになった加藤(森山未来)は、
梅木が容疑者を犯罪者と決め付け、容赦なく取り調べるやり方に
疑問を持つ。
しかし出所した黒川が加藤の婚約者・茉莉亜(加藤あい)を拉致したことから、
加藤は半狂乱となり、憎しみの塊となる。
茉莉亜は救われるのか?
加藤は人間不信から立ち直れるか?
梅木は黒川を殺してしまうのか?
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人間というものは、
あまりに憎しみにとらわれている人を見ていると辛くなるものだ
ということを
私はこのドラマを見て痛感した。
最初のうち、
私は武田鉄矢を正視できなかった。
人を人とも思わないその感情の鋭さは、
見ている私は切り刻む。
辛くて、見るのをやめてしまった。
再び見るようになったのは、
黒川が出所する前後からである。
梅木に犯罪を犯してほしくなかった元部下、今は上司である刑事課長・東野(杉本哲太)が
秘かに黒川を出所させる。
居所がわからなくなった黒川は「絶対にまた殺人を犯す」
という梅木の予言どおり、次々と殺人を犯し続け、
警察は再び黒川逮捕に追われることとなる。
「刑務所にいる18年間、ただ憎み続け、復讐することを望み続けて生きてきた」黒川は、
つまり梅木と同じだ、というそのスタンスでドラマが展開し出してから、
ようやく私は話に入っていけた。
そして、
次は森山である。
ドラマが始まったころ、
単なる正義感、「愛」だの「人権」だのと、教科書どおりの理想を掲げて
梅木に反発していたなまちょろいハンパな青年刑事にしか見えなかった男が、
次々と自分の身に起こる難題に顔を曇らせ、眉をひそめ、目をいからせ、
どんどん「憎しみ」に体をのっとられていく。
私は最初に武田を正視できなかったように、
今度は森山を見るのがこわくなった。
この行き着く先はどうなるのか?
所詮、悪は、悪。なのか。それはあまりにも辛い。
しかし、やっぱり愛は勝つ、でもウソっぽくないか?
脚本の遊川は、人間が極限状態で選び取るその瞬間に
現実と理想を融合させた。
まさに弁証法的結末。
もし、これが実際に起こった事件だったら、
その結末がこうなったかどうかはわからない。
しかし、
これはフィクションである。
冷静に見れば、多少鼻白むセリフを、
森山が渾身の演技力、感情の爆発とコントロールで見事に表現。
すべてが終わった後、
日常に戻った森山の顔は、
ドラマの第一回目の森山の顔とまったくちがう。
「大人になった」別の顔である。
人間の成長を顔で見せられるとは、たいした役者だ。
その上ドラマの公式サイトを見ると、
必ずしも時系列にシーンが撮られているわけではない。
つまり、
全体の話の流れを理解した上で、
「そのときの加藤」がどんな心理状態であり、何を理解し理解していないか、
そこを体得していなければ
こんな「表情」を作ることはできない。
脱帽。
受けにまわった武田も、
18年間の総決算が近づけば近づくほど冷静になっていく、
その過程が非常にリアル。
「ともよさんってどんな人だったんですか?」と問われて
「人は、忘れる」とつぶやいたシーンは忘れがたい。
ひと頃にくらべ、
その顔のしわをはじめ、体全体から「老い」が感じられる俳優武田ではあるが、
その年輪がすべて結実している演技を見るにつけ、
「続ける」「積み重ねる」ことが醸すものの大きさを思わずにはいられない。
遊川和彦といえば、
その代表作として「GTO」を挙げる人が多いだろう。
今回の「リミット」は、
衝撃的だった「女王の教室」に感触が似ているかもしれない。
「本音」をしっかりとみつめたところから始まるストーリーだ。
私は1992年の映画「十五少女漂流記」の脚本を手がけた遊川氏が
その映画のクレジットから自分を切り離すまで(「原作」とだけ表示)を
雑誌「シナリオ」で読んだ。
同号には映画にならなかった部分を含めて、遊川氏が書いた脚本も掲載されていた。
大きなテーマでありながら、
都合のよいファンタジーだけで片付けるやり方を
彼は好まない。
遊川氏のNHKドラマ執筆はこれが初めてだそうだが、
これからもタッグを組んでいい作品が生れそうな予感がする。
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