昨年は、源氏物語ができて1000年ということで、
「源氏物語千年紀」と銘打ち、源氏物語にちなんだ催しが多くありました。
昨年の4月・5月にNHK教育テレビでやっていた
「知るを楽しむ~この人この世界」の
「源氏物語の男君たち」もその一つ。
昨日、全8回を一挙放送しているものが非常に面白く、
午後10時から深夜午前1時20分まで、とうとう全部見てしまいました。
(途中、不覚にも記憶の途切れている部分あり)
「源氏物語」というと、格調高く、難しい文学と考える人も多いかもしれないけど、
高貴なお方のいろごと遍歴、というのがその実態であります。
「大奥」と同じような感じだと思ってください。
ただ、
主人公の光源氏は天皇の子でありながら母の身分が低かったので、
臣下に落とされ「源」姓となります。
そうなることで自由度が増し、
宮中だけでなく、外にも女をたくさん作れたというのが
大奥とちょっと違うところ。
瀬戸内さんは、昔から官能小説で売っていた方ですから、
ある意味「源氏物語」はテリトリーです。
「源氏物語」の口語訳をしたことで、この小説を深く読み込み、
今回の8回のお話につなげました。
瀬戸内さんのお話が面白かった要素の一つが、
「自分が紫式部だったら」という視点。
たとえば源氏が父親の桐壺帝の側室である藤壺と
初めて契る(というか無理やり)場面が
源氏物語にはない。
「自主規制」なのかもしれないが、
「作家だったら、絶対に書いていたと思う」と彼女は想像する。
書いたけれど、外圧ではずされた、
あるいは、書いたけれど、熟慮の上、はずした。
でも、私、たしか読んだような記憶があるなー、と思ったら、
それは藤壺が宿下がりしたところに源氏が忍び込む(ほーんと懲りないヤツ)
「二度目の契り(これも押し入る)」の記憶でした。
また、
いわゆる「宇治十帖」と言われる、
光源氏が亡くなった後の、次世代の物語について、
それまでとトーンが違う理由を彼女はこう語る。
・多くの女官が宮中から引退後は出家していたように、
紫式部も出家し、宇治のあたりに庵をむすんでいたのではないか。
なるほど、これだと宇治が舞台であること、
大君が信心深かったり、浮舟が僧都に助けられて出家したりするなど
ディテールを身の回りから拾ったと考えるとよくわかる。
・大君や浮舟をめぐる男と女の三角関係の深い悩みは、
式部自身のものではなかったか。
心は一方を慕いながら、体は他方を求める、という「肉体と精神の乖離」は、
女性にとって21世紀の今でも小説の大きなテーマであり、
それを追求した女性が1000年前にいた、ということに
瀬戸内さんは驚愕しています。
・「宇治十帖」は、自分のために書いた物語
光源氏が死ぬまでの物語は、
後宮における帝の寵愛争いで、帝を彰子のところへ向かわせるため、
「面白い物語を書け」と道長の命を受けていたこともあり、
今で言えば、クライアントの気に入るものを書いていたわけ。
ところが宮中から下がり、出家してからは
「誰に読まれなくてもよい」、ただ書きたい、書かねばいられないという
作家としてのあふれる思いをしたためたものなんだ、と
瀬戸内さんは想像するのです。
すごくわかる気がする。
「前」の物語では、女は男の前には無力なんだけど、
「後」の物語は、女は非常にかたくなで、自分の操を通すのよね。
たとえ色におぼれても、それを「しかたなかった」ではなく、
自分が積極的に求め始めていることを自覚して悩む。
そして、
最終的には「肉」で結ばれた男との真実の愛を胸に、
「心」で求めていた男に宗旨替えするのを潔しとせず、
彼との俗世を拒否して仏の道を選ぶわけです。
今だったら、
「もう結婚はしない。私は仕事に生きるわ」といったところでしょうか。
また、
「前」は、「男が求める女のカタログ」的だったのが、
「後」に出てくる薫と匂宮は、女がほしい二人の恋人の典型よね。
オスカルにとってのアンドレとフェルゼンというか、
「オルフェウスの窓」だって「花より男子」だって、
女主人公は、必ずタイプの違う二人の男の間で迷うのよ!!
・・・などなど、
源氏物語を知っていると、ものすごくわかるし、
読んでいない人は、きっと読みたくなったのでは?
光源氏を「女たらし」と斬って捨て、
その返す刀で「でも、女はそういう男に弱い」と言い放つ、
瀬戸内さんの色恋のすべてを知った上での客観的な分析が、
非常に冴えた番組でした。
そして
ホリ・ヒロシ氏の人形による場面の再現が
とてもしっとりしていて想像力をかきたてたことも
付け加えておきます。
(人形の作者について、誤認がありました。訂正してお詫びします)
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