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「我いまだ木鶏ならず」

連勝がストップしたときに、横綱双葉山が発した言葉だそうだ。
無心になれなかった自分を戒めたという。
双葉山は連勝ストップの後、3連敗した。
その双葉山の前人未到の記録を破るまであと一歩というところで負けたとき、
白鳳は記者に今の気持ちを問われ、「これが負けか」と答えている。
久しく負けていなかった。
これが負けというものだったんだ、というその感想は、
彼の、つきものが落ちたような無防備な微笑と共に
私の脳裏に大きなインパクトを与えた。
今回、NHKの長期取材による白鳳の道のりを番組で見て、
いろいろと考えることがあった。
まず、「日々のルーティンの中に好・不調が隠されている」という点では、
毎日必ず同じ行動をするというイチローの日常と同じものを感じた。
一流の人間というものは、
必ず自分のリズムと、
そのリズムを寸分たがわず毎日再現できる持続力を持っているというわけだ。
また、
「いまだ木鶏ならず」という双葉山の言葉を聞きながら、
私は歌舞伎役者と文楽人形の関係を考えた。
坂東玉三郎は、年をとらない人形をうらやましいと思うときがある、と書いている。
彼は演劇を非常に深く研究している人だけれど、
俳優としては自分の身体を演出家にあずける、といった言い方をする。
私はそのギャップをよく理解できないでいたけれど、
最近初めて文楽を見て、
ようやく彼の言葉の意味を少しわかったような気がした。
役者にとって、身体と心は別ものなのだ。
それは文楽というものが、人形を動かす人と、浄瑠璃を唄う人と、
そして人形そのものからできているののに似ている。
役者として心と身体は一体ではなく、
どうにでも動かすことのできる身体を俯瞰してみる冷徹な心を別に持っていて
初めて自由自在に動かせるものなのではないだろうか。
役者という身体の中から、自分という心を取り除けるか否か。
取り除いた身体の中に、改めて役という魂を入れることができるか否か。
双葉山も白鳳も、
人間としての心を抜き取ったあとに、「横綱」という魂を入れる作業を続ける。
横綱として勝ち続けるということは、そういうことなのかもしれない。

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