襲名披露公演の演目が発表されたとき、
世間は「ヤマトタケル」一辺倒の報道となりました。
でも、
私はどちらかというと、「義経千本桜」が見たかった。
5月ゴールデンウイーク中に渋谷のヒカリエでやった
「市川亀治郎大博覧会」(通称・亀博)でも、
この「義経千本桜」の四の切「川面法眼館の場」、
いわゆる「狐忠信」に賭ける彼の意気込みがものすごく伝わってきたし。
で、四の切(しのきり)。
うーーーん。
古典っていうのは、ほんとに奥が深い、と再認識。
ちょっと前に、私は国立劇場で、この「四の切」を観ている。
そのときの狐忠信は中村翫雀。
同じ四の切でも、翫雀のそれは宙乗りなしのそれである。
海老蔵さえもが「宙乗り」で狐忠信をやるようになったのだから、
ちょっと寂しく感じてしまうくらいだったし、
福福しいそのお顔に、キツネでなくてタヌキ忠信?とかいう人もあった舞台だが、
この翫雀の狐忠信のほうが、私はずっと心に沁みたのである。
何が違うんだろう?
細かい技術は見せる、見せる。
小柄な新・猿之助には、親を慕う子狐のせつなさが漂って妙。
でもね~。
染五郎とやった「女殺油地獄」でも思ったことだけれど、
彼はどうも「段取り」になるきらいがある。
「ここではこれを見せる、次にはこれをやる、そして最後はこうする」みたいのが、
なんか透けて見えてしまうの。
デキるだけに、忠信じゃなくて、猿之助自身が出ちゃうというか。
ひと言で言えば、「若い」ということなのかしらん。
ちょっと、若かりし頃の熊川哲也を思い出したわ。
評論家のなかに、彼をあまり評価しない人がいて
もちろん、彼の技術は認めるけれど、
「これでよし」とは絶対言わなかった。
その感覚に似てると思った。
「すごい」んだけど、この世界は「もっとすごい」「もっと深い」。
そこまでは、行ってない。
歌舞伎の世界、50歳は洟垂れ、っていいますが、
そういうことなんだな~、って、妙に納得してしまいました。
明日は、「ヤマトタケル」について書きます。
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