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「十一月大歌舞伎」(昼の部)@平成中村座

私は、仁左衛門の写真集を持っている。
3万円ほどもする写真集を買うにあたっての、
それこそ「清水の舞台」的決断については、こちらに詳しく書いた。
その中に、
大物浦「碇知盛」の写真があった。
見開いた眼で矢の根についた血を舌舐めずる知盛は、
ぞっとするほど恐ろしい。
だが今回、
なぜ知盛はその血を舐めたのか、
その理由までしみ込むように、仁左衛門が演じている、
その見事さに、本当にうなってしまった。
たくさんの手傷を負い、あまたの矢がささったまま、
白い衣裳に多くの血のりをつけて彼が花道から戻ってきたとき、
「あんなに輝いて、清らかな真っ白い衣裳がこんなになるまで…」
「ほんとに戦ってきたみたいだ。ものすごい汚しようだ…」
「毎日汚して毎日違うものに着替えるのか、すごい…」
などと、一瞬とはいえ、本気でそう思ってしまった私。
出陣前と出陣後で、異なる衣裳に着替えているに決まってるのに、
私は、仁左衛門が舞台の裏で一合戦終えてきたかのごとく感じたのだ。
それほど、
彼は疲れ、足取りはおぼつかず、息も絶え絶えに戻ってきた。
そのリアリティたるや、舞台も客席も一瞬にして呑み込むほどの迫力。
そしてああ、
舞台の正面に立った彼の姿かたちは、まさに錦絵から飛び出したかのごとし。
疲れに疲れ、喉の渇きを癒やすため、
突き刺さった矢を抜いて、自らの血を舐めるのである。
喉を潤す、そのためだけに、矢を抜くのだ。
その切羽詰った感じ。
「そんなに喉が渇いていたの…」同情したくなってしまう。
パフォーマンスでも見得でもない。
こんなわざとらしいしぐさが、なんと自然に思えるのか。
「碇」にしても「綱」にしても、
当たり前のようにかついだりまわしたりしない。
「これは…そうだ、これで!」といった、心の動きが見てとれる。
また、
「天命……」という科白の呟き方といったら!
負け戦の中で、自分の最期をどう受け入れるか。
負けを認めまいとする自分と、これはもうだめかもわからん、という
二つの間を逡巡する武者の気持ちが、手に取るようにわかるのである。
小ぶりな小屋で、歌舞伎座で見たときのような大海原はなかったけれど、
ただただ、錦絵の額縁の中から飛び出すような迫力の知盛を見て、
大きく胸打たれた私でした。
「角力場」では、
濡れ髪を演じた橋之助の横綱っぷりがよかった。
放駒と若旦那の二役をやった勘太郎は、
相撲取りを演じるにはちょっと細すぎで、
放駒は素人っていうことになっているからいいのかもしれないけれど、
それでも登場のところは、もうちょっと大きさがほしかった。
前に見た「一本刀土俵入り」のほうが、ずっと貫禄があったというもの。
若旦那はよかったし、
後半、着物を着替えてからはそれなりに華やかさはあったが、
まあ、北の湖に鷲羽山が買った、みたいなのをイメージしたとしても、
なんか相撲する人には見えなかったな~。
以前これを見たときには、
ちょうど大相撲の八百長問題が取りざたされていたころで、
ただのお話とは思えないぬるりとした感触が残ったのを覚えています。

「お祭り」

昨日も書きましたが、最後に現在の隅田川と溶け込むところが
演出としてとても冴えていた。
私は踊りはまったくわからないので、何にも言えません。
が、勘三郎さん、あまり楽しそうに見えなかったのがちょっと気になりました。
(ただ、この後見た「沼津」はすごーくよかった)

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