富十郎さんが3日に亡くなり、
芝翫さんも休演しているちょっと寂しい初春歌舞伎ですが、
昼の部に行ってまいりました。
「御摂勧進帳」「妹背山婦女庭訓」「寿曽我対面」。
私は「妹背山婦女庭訓」のお三輪(福助)がよかった。
自分の言い交わした男(求女・もとめ・実は藤原淡海=橋之助)が
大きな屋敷に入っていって、
どうもその屋敷の橘姫と結婚しちゃうらしいと分かり、
どうしても確かめたくてその屋敷に潜入する。
ところがそこの官女たちにみつかって
田舎者となじられ、
「これができたら会わせてやる」といわれて
あれこれやらせられていじめ抜かれ、
あげくに「会わせるなどと言ってない」と打ち捨てられる。
ここの場面、お三輪の純朴でイノセントなだけにKYな感じがうまく出て、
そこがまたしゃくにさわっていじめがエスカレートするところとか、
いじめられっ子がある時点で急に復讐の鬼に豹変するところとか、
あるある、こういうこと、っていうふうに描かれているし
福助も
ともすれば、あまりにパターン化した主人公いじめの構図がハナにつくところを
お三輪に肩入れしたくなるように、うまく演じていたと思う。
どうしてこんなにされなくてはならないのか、
うまく抵抗できないふがいなさの中からもくもくと邪気が出てくるところが
すごくリアルだった。
その後の展開が、「えっ?」っていう、
鱶七さん(團十郎)、あなたどっちの味方よ?っていう驚愕もあり、
でもその「なぜ」もちゃんと筋が通っていて
(まあ、フィクションとして、ということです。奇想天外は奇想天外)
なるほどね~、のお話でした。
「御摂勧進帳」は、
いわゆる能舞台の勧進帳とは趣向を変えた、
見世物的な形になっています。
歌舞伎では、向かってくる敵の首を一太刀で斬りおとす場面を
戯画的にあらわすことはよくあることですが、
そこここに落ちた首(に見立てたもの)を箒で掃いて掃除して、
掃除しながらゴルフかゲートボールかっていう遊びをする、というくだりは
どうしてもついていけなかった。
この演目自体「芋洗い勧進帳」という異名がついているように、
最後はその「首」を大きな天水桶に入れて、
弁慶が2本の金剛杖で掻き回す、というラストシーンで終わる。
ごろごろ首を芋洗い。
首はぽんぽん桶の外へ!
……ダメだ。
私がホラー映画とりわけスプラッター系がダメなのは、
こういうことだな、と思った。
斬るほうじゃなくて、斬られるほうに感情移入しちゃうのよ。
「首」は丁重に扱ってください。以上!
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