若手が浅草公会堂で繰り広げる新春歌舞伎のうち
「一本刀土俵入」と「京鹿子娘道成寺」を見る。
まずは「一本刀土俵入」。
長谷川伸が昭和初期に書いた世話物で、
十年前に受けた人の情けを返しにくるお話だ。
我孫子屋の二階の酌婦・お蔦(亀次郎)と、
通りすがりの相撲取り志願・茂兵衛(勘太郎)との
どこかのんびりとした掛け合いが心を洗う。
ちょっと足りないかとさえ思われる純朴な茂兵衛が無一文であることに、
飲んだくれて投げやりなお蔦が同情する下りだけれど、
茂兵衛に恵む形ではあるが、
実はお蔦の方が絶望の日々に光を見たような部分をしっかりと見せる
亀治郎の玄人っぽい女っぷりに艶と陰があって惚れ惚れする。
茂兵衛は、一幕の純朴な田舎者ぶりに、一瞬父親そっくりな横顔を感じさせる。
しかし、まだまだ親父様のように道化ぶりを楽しませるというよりは、
どこまでも純朴を絵に描いたような、清清しい茂兵衛。
ところが十年後、股旅姿の渡世人になった茂兵衛の、
なんとも格好のよいことといったら! 匂い立つほどである。
頭の回転もよく、腕も上げ、啖呵も一人前、
そこへ持ってきて「こんなものになってしまいやした」と自らを卑下する心が
一段と男ぶりを高めるというもの。
あまりに素敵すぎて、相撲取り崩れにはちょっと見えない。
そこが難といえば、難。でも二枚目俳優だから、許す!
勘太郎の股旅姿、サイコー!
一幕ではお蔦が、大詰では茂兵衛が、
何度も振り返っては感謝する相手をずっと見ている。
その目をうるませる涙の中に詰まっているのは、人生のやるせなさ。
川の渡し場でのちょっとした会話などにも
そこはかとないうらさみしさが滲む、やさしい物語である。
打って変わって華やかなのが、「京鹿子娘道成寺」。
七之助の艶やかさがこれでもかと舞台に炸裂。
特に手毬をついたり手拭いを使ったり、と
表情がはっきりしているものは独壇場だ。
そして鞨鼓や鈴太鼓を使う終盤になると、
もうこれは歌舞伎というよりジャズのセッションに近い。
囃し方の三味線や鼓に負けじと
リズム感のよさで全身で音を受け止め、そして音を放つ。
もちろん引き抜きなどの衣装の変化もあって、
非常に見ごたえがあった。
しかし、
なぜ道成寺なのか、なぜ鐘に上るのか、
その説得力には乏しい。
シネマ歌舞伎「京鹿子娘二人道成寺」で見せた
玉三郎の鬼気迫るまなざしを見てしまうと、
ただ「綺麗」だけではこの踊りは済まされないのだとわかってしまう。
私が見たのは3時半からの第二部。
第一部は11時より。
出し物は「一條大蔵譚」と「土蜘蛛」で、こちらは時代物である。
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