市川海老蔵が南座で、新しい試みに挑戦しています。
「源氏物語」を構成するにあたって、
能・オペラから一流の方々を客演に招きました。
また、
女性である妹の市川ぼたんも藤壺役で出演しています。
以下、観劇の感動をもとに書きました。
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碧眼のカウンターテナー、アンソニー・ロス・コスタンツォが
狩衣・指貫を来て天使の歌声を聞かせる!
枝垂れ桜の前で、源氏と藤壺が睦み合う! 藤壺はぼたんさん。
桐壺帝の威厳は能楽師片山九郎右衛門。
青海波は歌舞伎の海老蔵と能の味方玄の二人で!
「夕顔」では、夕顔をとり殺す六条御息所を能楽師二人が
小面と般若の二つの面で表す!
源氏と夕顔の行く手を阻むように、
音もなく近づく御息所の九郎右衛門がぞっとするほど恐ろしい。
小面の九郎衛門が源氏を誘惑する間、
般若の味方玄は夕顔をなぶり殺す。
まるで、ガムザッティにソロルを奪われて毒蛇にかまれたニキヤみたいだった…。
アンソニーのカウンターテナーも素晴らしいが、
邦楽の囃子方ももちろん負けていない。 艶の美声!
後半、
藤原惟光役のアンソニーが夕顔の死体を運ぶところに、
清元がかぶるところはもうほんとにボーダレス!
日本の四季の美しさを後世に残したい、という海老蔵は、
この花盛りの京都の真ん中で、
舞台上でも大きな枝垂れ桜を活けさせて見せるのです。
日本の伝統芸能がタバになって、世界へ羽ばたいて行く感じです。
出だしと終わりは紫式部(孝太郎)が物語をするので、
どうしても説明的になりますが、
「青海波」と「夕顔」は、これ以降、「見取り狂言」として生き残るのでは?
特に「夕顔」は、
平安時代の「源氏物語」が室町時代の能「野宮」を生み、
そして歌舞伎にもつながった。
一つの題材を各時代の芸能が極めていったその重層性を
ここに一つに仕上げた感がある。
市川團十郎の家はその昔、
能「安宅」から松羽目物の歌舞伎「勧進帳」を作り上げた。
今回の「源氏物語」では、
「能」だけでなく「能楽師」も板にのせ、競演するところが
もう一段踏み込んでボーダレスにしたと感じられるところ。
そして海老蔵が「おれが、おれが」で全面に出ていないところがすごい。
もちろん、
光の君は海老蔵だからこそ光り輝くのだが、
どちらかというと、
歌舞伎はその「なんでもあり」の性質を使って物語を大きくまとめるための道具でしかなく、
海老蔵が好き、歌舞伎が好き、で南座に来た人はきっと
能の幽玄さ、オペラ歌手の荘厳さに触れ
能を、オペラを見てみたくなったのではないでしょうか。
「三升景清」を見て、海老蔵のプロデュース力、
歌舞伎に対する正攻法な向き合い方に感じるところがあり、
花道のすぐ横という良席で初日に観ることになった「源氏物語」。
正解だと思った。
彼は、自分をよく知っているのである。
「みな、私を見るのではなく、私を通して死んだ母を、桐壺の更衣を見ている」という源氏の言葉は、
そのまま
「私を通してこれまでの市川團十郎の芸を期待している」という海老蔵の叫びでもある。
荒事を旨とする成田屋の御曹司としては、
海老蔵の裏返ってしまう張り出し声やセリフ回しは、常に批判の矢面にさらされる。
しかし、囁くような声は滑らかで、美しく、静寂の劇場によく響くのだ。
光の君の抑制された声もとてもよかった。
「私は私の思うままに。それが、私の定め」という光の君の言葉をかみしめつつ、
この興業の成功と、
これからの彼のプロデュースにますます期待する。
おそらく、
彼は勘三郎のようなアイデアマンとして興業を打っていくことだろう。
芸の継承・伝承という意味では、
勘九郎のようなきっちりとした芸を深めていく必要があろう。
だからこそ、
今の花形役者たちは非常にバランスがとれているのではないだろうか。
彼らが歌舞伎界を引っ張っていく時代になったとき、
彼らの今の歌舞伎に対する意欲は、大きな花を咲かせていると思う。
とにかく、
もし行こうかどうしようか迷っているのであれば、
ぜひ、おいでください。南座へ!
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