「野田版・鼠小僧」はシネマ歌舞伎で見たものの、
ナマは初めて。
シネマ歌舞伎で見たときも書いたけれど、
私は同じ野田の手の歌舞伎では「研辰」のほうが好きである。
でも「大江戸りびんぐでっど」を見たあとで「鼠小僧」を見ると、
かなり完成度が高いというか、
歌舞伎で描く世界をより深く知って作られていると思った。
もっとも感心したのは、廻り舞台を駆使したスピーディーな場面展開。
一度も幕を下ろさずに舞台を回すことで場を変えていく、
その手法は見事である。
冒頭の、
屋根の上での捕り物が入れ子の入れ子になって
芝居小屋ののれんをかきわけて町人たちが出てくるシーンは
本当にスムーズだ。
役者で見事だったのが、大岡越前に扮した三津五郎。
「お上」の裏と表、というか、
権力者が実に見事に自分のいいように世の中を回していく、
そのいやらしいほどの落ち着きと自信。
そこへ、ときどき見せるうろたえようや滑稽さ、と
非のうちどころのない演技プランであった。
その分、橋之助の与吉は割を食った感じで、
シネマ歌舞伎のときより小物に思えた。
七之助は相変わらずの怪演で、
口を大きく開けてのけぞるところなど、どーみても狐の妖怪。
どんなに早口でも、どんなにおどけていても、
よく声が通る七之助が、私は好きだ。
それに比べると、
勘三郎はかなりしゃがれ声だった。
ポリープは取ったのだったかしら。大丈夫なのか。
セリフが多いだけに、気になった。
というか、
「カネカネカネカネ…」とせわしなく叫ぶ三太という人物、
勘三郎以外の人でやることは可能なのだろうか?
どんな作品でも、
書く人は「残したい」と思うはずだ。
それが歌舞伎ならなおさらのこと。
何百年も残っているものがあると知れば、
その末席に連なりたいと願うだろう。
さまざまな役者がやることで、
登場人物は異なる視点からみられ、味も出てくる。
しかし三太は、
勘三郎のコメディアンとしての資質に頼りすぎていないか。
勘三郎らしさを差し引いたら、主役としてはかなりスケールが小さい。
そう、文字通り「ケチな男」なものだから。
野田は卑小な男を敢えて描いている。
野田の刃は、「権力者」にも向いているが、
同時に「大衆」にもつきつけられている。
しかし、三太は研辰ほどには感情移入しにくい男なのである。
それに、
無理にサンタとクリスマスの話にしてしまったところが、
私はどうも好きになれない。
ちょんまげの人が12月24日が特別の日だって思うはずもないから。
だから、
手放しお見事、とはいえないのだけれど、
それでも、
一気に物語を見せていく、その手腕は野田ならでは。
後ろで見ていた小学生が、
大きな笑い声をあげてよろこんでいた。
歌舞伎って、年寄りのものじゃないって思ってもらえるきっかけになるのは、
悪くない。
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