「三人吉三(さんにんきちざ)」は、
「お坊吉三」「お嬢吉三」「和尚吉三」と呼ばれる3人の盗人と、
その中でも中心的存在・和尚吉三の家族の物語。
三人の盗賊たちには、それぞれの過去があり、
3つの要素にからみとられて運命の最期を遂げる。
庚申丸という名刀、
その刀を買うための100両、
その刀で切った孕み犬。
この3つがぐるぐると回って、話が進む。
刀は、武士の出のお坊吉三の家宝、
金は、商家の出のお嬢吉三の実の親が振り出したもの、
孕み犬を切ったのは、和尚吉三の父親
たったそれだけの話である。
それだけの話が、3時間半。それも、緻密で一つもほころびがない。
一見何のつながりもないようなものでも、
必ず「三つの要素」が発端になっていることが明らかになってくる。
一つひとつの場面の完成度は言うまでもない。
歌舞伎の台本らしく、役者の「しどころ」満載で、錦絵を見るよう。
川だ家だ寺だ辻だと場所がめまぐるしく変わるのに、
感情の流れがせき止められることがない。
クライマックスは何度も来て、
ここが最大の山場だと思うと、そのあとからもっと大きな波がやってくる。
「脚本さえよければ、芝居は成功する」とは、俳優にして映画監督でもある津川雅彦氏の言。
「三人吉三」を観ながら、私はその言葉をかみしめていた。
この話を作った河竹黙阿弥は幕末の人で、明治の半ばまでは生きていたという。
おそろしいまでに完璧な設計図。
話の構成が見事さに、私はめまいを覚えたほどである。
その設計図の通りに、立派な迷路を作り上げたのが串田和美。
「コクーン歌舞伎」というと、歌舞伎座の格式から自由になって、
破天荒で、歌舞伎を逸脱したものをやるように思われるかもしれない。
たしかにそういう面は多分にある。
音楽が椎名林檎だったり(まったく違和感なし)、
歌舞伎俳優以外の役者が出ていたり(笹野高史、見劣りせず)。
でも、内容は、とことんオーソドックス。
演出的にはところどころに現代的な味付けを配置するが、
セリフの一文一文は重厚、100年以上前に書かれた世界を浮かび上がらせる。
「新しく作るというより、原作の意を忠実に伝えたかった」と本人が言うだけのことはある。
それにしても、歌舞伎役者は力がある。
若い勘太郎、七之助にして、一瞬で観客をとりこにする。
川端で夜鷹の七之助が「もし、お遊びなされておゆきなしゃんせ・・・」と声をかけ、
勘太郎が足をとめ、
二人みつめあいながら気づけば手に手をとって・・・という場面など、
息をのむほど美しい。
福助のお嬢吉三は、猫をかぶった時の女のシナと、地を出した時の落差の大きさに感心する。
また立ち回りの見事さ、体の柔らかさなど、
振袖に大きな鬘をつけて、よくもここまで自由自在に動けるものだと感心してしまう。
橋之助がまたいい男ぶり。
冒頭すぐに斬られてしまうちょい役でも顔を出しているが、
その軽妙な道化ぶりから一転、お坊吉三という侍崩れの盗賊は、
鋭い切れ味と暗い翳を合わせもち、セリフ回しに惚れ惚れする。
ただ一人、歌舞伎役者でないのに重要な役で出ている笹野高史は、
三つの要素の交差をなした張本人・伝吉の苦悩、
人間の業を一身に受けて身悶えする弱くて強い男の一生を演じ、
まったく他と見劣りすることがなかった。
とはいえ、やはり勘三郎である。
出だしは商人役で藤山寛美ばりの演技、
「申告しまっせ」など、自虐ネタも織り交ぜて笑わせておいて、
和尚吉三として出てからは、盗賊ながら義に厚いまっすぐな人間性がまぶしいほど。
本当は嬉しいのに憎まれ口しかきけない父親とのかみ合わない会話の中ににじみ出る、
愛に飢えた息子としての情、
その父親の死に盟友吉三たちが関わりがあると知った時の目、
そして「二つ棺桶を用意してくれ」と搾り出すように言い放った時の口・・・。
すべては巡る因果の糸車。
いかなる人間も、悪行の代償を払わなければならない。
その残酷なまでの徹底ぶりが、
ご都合主義にとどまらない黙阿弥のすさまじい作家根性を見せつける。
6年ぶりの再演は、いよいよ深みを増したとの評判も高い。
観客を情念うずまく江戸の空間にひきずりこんだ。
シアターコクーンの客席を半分平土間にして、
通路は縦横無尽の花道となる。
座布団と座布団の間に役者が割り込んで、大衆劇の匂いを醸し出す。
カーテンコールでは勘太郎が中心となって「ブートキャンプ」まで披露するサービス精神。
勘三郎の「もともと歌舞伎はアングラ」というポリシーを体現している。
私たちが演劇に求めるカタルシスの、すべてが入っている宝箱、
それが、このコクーンでの「三人吉三」だったような気がする。
先日の日記で申し上げたように、WOWOWでの視聴感想です。
ほんっと、ナマで観たかった(無念)。
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