大物浦、いわゆる碇知盛。
吉右衛門の銀平/知盛、魁春のお柳/典侍の局、梅玉の義経、歌六の弁慶。
今回、もっとも心打たれたのは、魁春である。
というのは、
この「大物浦」を見るたびに、いつも疑問に思うところがあった。
上手には義経とその家来、そして捕らえられた安徳天皇と典侍の局、
中央に息も絶え絶えの知盛がいる場面。
安徳天皇は、子どもなので今の状態よくわかってないのはわかる。
苦しい息の下から「源氏と平家はいつの世も戦ってきた。
これからも生き変わり、死に変わり、死に変わ~り、生き変わ~り、
恨みはらさでおくものか~!!」とすでに生霊のようになって声轟かす知盛に、
「今までは知盛の情けで生き延びたけれど、
これからは義経の情けで生きていくんだから、義経を恨まないで」なんて言う。
子どもだし。それはわかる。
でも、その後ろにいる典侍の局がフシギ。
これまで銀平お柳という夫婦に身をやつし、
安徳天皇をお安という娘ということにして運命共同体になってきた知盛が
生死の境をさまよっているっていうのに、
涼しい顔をして義経サイドに突っ立ってる…って見てとれることが多い。
そこを、魁春は魂を抜かれた空蝉としてそこにあるのだ。
黙っているのではなく、口も利けないほど蕭然としてそこにいる。
立っていても、座っていても、
「黙ってみている」のではなく、目はうつろ、指で押されれば倒れてしまうほどに。
完全に、義経の「囚われ人」を体現している。
だからこそ、
安徳天皇の「恨むな」の声にはっとわれに返り、
もう自分と知盛の役目は終わったのだと悟って自害するのである。
仮初の夫・知盛とともに散る潔さ。
それまでの「静」があるから、自刃の「動」が生きる。
その意味を、初めて理解できた。
吉右衛門の知盛は、何度か見ている。
が、仁左衛門の知盛を見てしまうと、物足りなく思ってしまう。
仁左衛門の芝居には、すべてに裏づけがあるのだ。
なぜその矢を舐めるのか、なぜその岩を登るのか、
なぜ碇をかつぐのか、なぜ縄を結ぶのか。
知盛という男の考えていることが、すべてわかる。
そして、すべてが必然に見える。
吉右衛門の芝居では、
すべての理由が「それが碇知盛という芝居だから」としか見えなくなる。
この違いはあまりに大きい。
「天命」のひと言に込められた思いの大きさも、また。
だから魁春の芝居には救われた。
今年に入ってから、魁春の芝居には毎回発見があり、毎回見惚れる。
実は昨年まで、全然タイプではなかった女方だったのだが。
私の見る目が変わったか、それとも、何か心境の変化が丈にあったのか。
これからも、魁春の芝居を楽しみにしている。
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