菊五郎劇団による
七世尾上梅幸十七回忌と二世尾上松禄二十三回忌の追善公演。
昼・夜通しで観劇しました。
目玉は夜の部の、菊之助による「娘道成寺」で、
これは目にも彩、そしてお囃子が一流で
絶対的なユニゾンの声と
一糸乱れぬ三味線、気迫の鼓が共鳴しあい、
緊張の中にも心地よい、芸術的なひとときを味わった。
それに引き換え昼の分の「吉野山」の「道中初音旅」は、
同じ菊之助でありながらお囃子(というか清元)が
それぞれが唄う節回しがバラバラ。今までに聞いたことのない出来で、
踊りがどうこうの前に、久方ぶりの「耳が拒否」でした。
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菊五郎の「魚屋宗五郎」はさすがの粋っぷりで
こういうのやらせたら菊五郎の右に出るものはいない。
断った酒が入ってからの楽しさはもちろん、
妹を亡くした最初の沈んだところの抑え方が絶妙。
世話物としてのアンサンブルも出来がよく、
本当に人のお通夜に参列した気分だ。リアリティここに極まれリ。
そのなかで、
理不尽な理由をつけられお手討ちになった妹のうっぷんを
はらしに行きたいという周囲に対し、「しらふ」の宗五郎が
妹の支度金に200両ももらったじゃないか、
そのカネで借金返して、仕事の道具を新調して、銭が入りだして
みんなの今があるのはお殿様のおかげなのに、
文句を言いになんか行けない、と静かにいさめる場面がある。
江戸の昔の、妾奉公、いわれのない不義密通の嫌疑で拷問・惨殺、など
今とまったく時代は違えど、
私の頭の中には「とのさま」が「とうでん」に入れ替わって聞こえてきた。
庶民っていうのは、どんな理不尽に踏みにじられても
「しょうがない」と思わされるしくみの中で生かされ、
「しょうがない」と思うような思考回路が
長い間にインプットされているのではないか。
そんなふうに思えた。
最初は「しょうがない」の先頭で皆を抑えていた宗五郎だが、
酒の勢いでお屋敷に乗り込み、思いのたけをぶちまける。
殿は自分の「非を認め」、遺族の暮らしを「保障」する。
死んだ妹は帰ってこないが、
遺族の気持ちは少し晴れ、未来に希望が見えてくる。
今も昔も、
「過ちを認め、謝り、保障し、改善を約束する」。
これが和解の第一歩であることは、間違いない、と
昔むかしの歌舞伎の話におしえられた気がした。
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同じく江戸の世話物「髪結新三」は、
親分すぎる菊五郎より、勝をやった菊之助の
男っぷりと悪っぽさの危うい魅力に、もうメロメロ。
梅枝扮するお熊とのバランスからいっても、
彼の「新三」を早く見たいと切に願った。
でも
今回、もっとも心揺さぶられたのは、
三津五郎の「傾城反魂香」から、いわゆる「吃又」。
吃音が激しく、弟弟子に先を越される又平の悲哀を描いたとされる。
しかし作品ができた当初は
「喜劇的」な描写が受けて上演が繰り返されたという。
今のようなスタイルになったのは、六世菊五郎によるとか。
まるで、「ヴェニスの商人」のユダヤ人描写変遷を
ほうふつとさせる話である。
それでも前半は「どもり」を揶揄するような表現があるが、
そこを克服する後半が、この作品の真骨頂だ。
障害を抱える辛さ、理解してもらえない辛さだけでなく、
「障害」にかこつけてつい甘えてしまう当事者、
つい甘やかしてしまう家族の様子にも真実味がある。
そこから抜け出したときに、一人の人間として認める師匠、など、
非常に多面的に描かれていて感服。
とにかく、この
なんとか一人前と認められたい吃音者・又平の成長を
三津五郎が素晴らしい演技で表す。
すぐに言い返せぬところを妻に言わせたり、
わかってもらえなくてつい手が出るところも、
一方で、
なぜわかってもらえないのか、という搾り出すような涙も、実に真に迫り
涙はこちらにも伝染してきて、まいった。
だが、
そんな当初の甘えた表情は
決死の覚悟で1枚の絵を描く段で豹変、神々しさに包まれる。
本当に「一人前になった」男の美しさ、凛々しさが漂う。
最後に、口上が言えずに困るのでは?という師匠の心配に対し、
妻が「節のあるものならすらすら言える」というのは
吃音者の実際をきちんとふまえてご都合主義にならず、
そこもよく出来ているな、と感心至極。
とにかく、
三津五郎はすごい。
「髪結新三」の大家も、
三津五郎には老け過ぎな役にもかかわらず、
化粧で目元をちんまりさせて、化けた化けた。
今月の新橋演舞場は、充実である。
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