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Kバレエ「ラ・バヤデール」@オーチャードホール(1)作品

Kバレエ創立15周年記念、
全幕10作目となる「ラ・バヤデール」。
この演目は、
若き日の熊川が「ブロンズ・アイドル」を踊って
英国ロイヤルバレエで確固たる地位を築くきっかけとなったり、
主役のソロル役が全員降板という事態で
アンダースタディにも入っていなかった熊川が
急遽4日で稽古をして主役のソロルを踊り切り、
これを機にプリンシパルへの道が開けた、とか、
いわくつきの演目であるだけに、
ファンの思い入れも強い。
当初、熊川の名前がキャストに並んでいなかったため、
落胆した人たちも多かったに違いない。
私もその一人である。
ところが公演1カ月前になって熊川主演の追加公演が発表、
にわかにモチベーションが上がって今日を迎える。
どんな「ラ・バヤデール」をつくってくるか。
どんなソロルを踊ってくれるか。
私は19日夜、20日昼、20日夜、25日昼を見る予定。
今日は、
プロダクションとしてのKバレエ版「ラ・バヤデール」について書いていく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幕が開いたその瞬間、あれ?と思った。
「幕」がないのである。
そう。今回は美術がヨランダ・ソナベントではない。
彼女のプロダクションでは、必ずその演目にちなんだ幕がつくられていた。
それは、1枚の幕のなかに作品全体のコンセプトを詰め込んだもので、
私たち観客は、「幕」という名の冒険地図を、
これからの「物語」をひもとくように眺めながら序曲を聞いたものだった。
今回は、その「幕」がない。
それが、こんなにさびしいものとは思わなかった。
Kの作品とヨランダの美術とが、こんなにも混然一体となっていたとは。
「幕」はKバレエの全幕公演にとって、
トレードマークにもなっていたんだな、
あって当然のもので、
それをこんなに期待していた自分がいたことに、
改めて驚かされた次第である。
もちろん、今回の美術がダメだというのではない。
でも、既視感のある美術ではあった。
インド的なところは写実にこだわったそうで、
そのあたりの限界かもしれない。
もう一つの驚きは、
彼がロイヤルで踊ったマカロワ版に似るのを避け、
敢えてロシア版を踏襲しつつ作り上げたこと。
二幕の最後の最後の結婚式の場は、
クールさよりエキゾチックさを全面に押し出した。
彼の解釈でさすがと思ったのは、
その結婚式の場でニキアに花籠を渡すのがソロルであるところだ。
ニキアの踊りは前半は悲しみにうちひしがれているが、
花籠を渡されると急に明るい曲想に変化し
ロシアの村祭りで陽気に踊るような感じになる。
そこがいつも、
「恋人の結婚式で踊らされて、どうしてあんなに楽しそうになるの?」と
ちょっと疑問だった。
花籠をソロルが渡すことでニキヤは救われる。
「結婚はできないけど、あなたが一番好きなのは、私なのね」と
自分を納得させられたのだ。
ガムザッティの心理もよく表れていた。
ソロルと結婚できると思ったときの初々しさ、
ニキヤという恋人がいるとわかって驚き、
父親がニキヤを殺すと言っているのを聞いてうろたえる。
ニキヤに会うと、その美しさに自信を喪失、
お金で解決しようとするけれど、
ニキヤの反撃に遭って、
ナイフをつきつけられて悲しみが憎しみに変わっていく。
しかし、
全体に説明に過ぎたように感じる。
もっとバレエを、ダンスを信じてよかったのではないか。
一曲一曲のダンスパフォーマンスにこそ、喜怒哀楽をにじませるべきだったのではないか。
行間を埋めるようにして、
独立したダンスとダンスのつながりを考え、
自分なりに妄想をふくらませる余地がほとんどない。
「わかりやすさ」は物語から奥行を奪う。
一幕も二幕も、それぞれ第一場が非常に説明的で、
出だしが冗長。導入としてのわくわく感に欠けた。
どうやってソロルが寺の踊り子と会う算段をしていたかとか、
そういうのも、事細かにする必要はなかったように思えた。
「何で苦行僧が恋のキューピッドになるか?」は
どんなに説明されても納得できるものではない。
その上
「何で苦行僧がアヘンを勧めるいか」に至っては、理解不能。
でも、
そんな説明は、最初から要らないのではないだろうか。
二股男が元カノの死に耐えられずにアヘンを吸ったとしても、
全然違和感がない。
その程度の男だ。悪にも染まるし、平気でひよる。
「どうしよう、アヘンなんか吸っていいのかな」みたいに逡巡するところまで
描く必要があったのだろうか。
これまでの既存振付のように、
幕があいたらアヘン吸っていた、で、全然かまわない。
どうしてそうなったかは、こちらが想像すれば済むことだ。
逆に言えば、
「ラ・バヤデール」という作品自体に、心理的なものを深めたりする余地がない。
寺の踊り子といい仲でありながら、
大金持ちのマハラジャの娘との縁談は魅力的だったし、
ブスだったら即刻断ったかもしれないけれど、かわいかったから承諾して、
毒蛇にかまれた元恋人を置き去りに婚約者とどこかへ行ってしまうような男の話である。
それでもソロルが恋を失った男として光り、
ニキヤは踊り子と巫女の間を行き来してまるで神の化身のように神々しく、
金持ち女のいやららしさ満載のはずのガムザッテイも、
恋の成就に向かってひた走る女のせつなさをあふれさせる。
それは、すべて、バレエが醸し出す気品のおかげなのだ。
おそらく、説明どころか、何の脈絡がなくても、
観客は珠玉のバレエさえ見られれば、それで満足するだろう。
マリインスキーの「バヤデルカ」など、その典型である。
一幕の直後、さっき死んだニキヤが笑顔でカーテンコールで答えても、全然OK。
死ぬ寸前のニキヤの踊りに満足したからである。
感情のすべてが踊りの中に詰まっていて、爆発的なカタルシスを体験できる。
それ以上のいったい何を望もうというのだ?
今回の舞台を観ていても、
挿入されるヴァリアシオンなど、インドとはまったく関係ない踊りで
ソリストたちが見せた珠玉のパフォーマンスには幸福感を感じた。
とはいえ、
熊川流のストーリー構成も光っていた。
ソロルがアヘンを吸い、影の王国でニキヤを踊りながら死んでいたという解釈や、
「白い蛇」がガムザッティに…というところは秀逸。
ある意味、
歌舞伎的因果応報が潔い。
二股アヘン男にマハラジャの暮らしを許さなかった熊川に乾杯である。
そして、いったいいつブロンズ・アイドルは現れるのか?
3幕をつくらずしてどこに入れたか、
ブロンズ・アイドルの踊りを要にすえたそのアイデアが冴えわたった。
結論から言えば、
この作品を十分に楽しんだけれど、
もっとも魅力的だった場面は、振付も音楽も決定版だったところだった。
斬新さや解釈の独自性より、古典舞踊としての完成度の高さをこそ味わった。
明日は、
踊り手について書きます。

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