初めにお断りしておきますが、
私は観劇前に先入観を持ちたくないので、
人のブログや新聞の舞台評などは極力読まず、
ほぼぶっつけ本番で舞台を見ます。
そして観劇後にパンフレットを読み、
ある程度正確な基礎知識を仕入れてからこのブログを書くようにしています。
でも、昨日はパンフレットが売り切れだったので
今回はパンフレット未読のまま書きます。
ただ一緒に観劇した知人が、
筋金入りのヅカファンだった(従妹がヅカガール)ことから、
いろいろおしえてもらうことができました。
それも含めて、以下のレビューです。
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宝塚・男役トップの安蘭けいが退団後初めて出演するこの「アイーダ」は
実は、宝塚が作った「王家に捧ぐ歌」という宝塚のオリジナル作品。
そして安蘭けいは宝塚時代、
男役であるにもかかわらずアイーダ役をやって大好評を得たといういわくつきだ。
(相手役・エジプトの武将ラダメスは湖月わたる、
恋敵・ファラオの娘アムネリスは檀れいだったとか)
今回、
演出も宝塚の木村信司が担当し、
女性だけの出演者のために作られた劇が、男女混合キャストでリニューアルされた。
「アイーダ」のあらすじは
エジプトとエチオピアが隣国同士戦う中で、
エジプトの武将ラダメスはエチオピアの王女アイーダを囚人としてエジプトに連れてくる。
二人は立場を越えて、互いに惹かれあう。
また、
ファラオの娘アムネリスもラダメスが好きで、
ファラオも英雄ラダメスをいずれ王族の一人に迎えようと思っている。
しかしラダメスとアイーダの絆は固く、
とうとう二人は国を捨ててでも一緒になろうと脱出計画を練る。
一方、
アイーダの父はエチオピアの王としてファラオ暗殺を企て、
娘アイーダにファラオの周囲が手薄になる時をラダメスから探り出せと迫る。
愛する人と父親との間で引き裂かれるアイーダの決断とは?
そして二人は無事に結ばれることができるのか?
…というもの。
舞台のテイストとしては、
女性中心のアンサンブルが出てくると宝塚風、
それに対してファラオなど男性の歌が中心だと、劇団四季風。
それもそのはず、
ファラオは光枝明彦、神官は林アキラ、アイーダの父は沢木順という重厚な布陣。
特に林さんの声は素晴らしかった。
そして踊りはブレイクダンス的な要素も取り入れ、現代風に。
大きなピラミッド型の舞台装置が中央にデンと構え、
それが半分に割れて移動する。
その階段の高低を利用して上下の広がりはあったものの、
思いのほか舞台前面が狭いのが気になった。
逆に出演者が少ないためにそういう装置にしたのかもしれないが、
ダンスをさせるにはもうちょっと広い空間がほしい。
安蘭けいの衣装は素敵だったが、
それ以外は衣装・装置とも、ハリボテ感があり、
エジプト側を金キラにしたわりにはチープ感が否めなかった。
思いのほか好演したのが、
ラダメス役の伊礼彼方。
「テニスの王子様」でブレイク、
最近では帝劇「エリザベート」で浦井健治とともにルドルフをダブルキャストで演じ、
次々と活躍の幅を広げているが、
たっぷりとした声に確かな感情の機微を乗せる技術を持っており、
アイーダを心から思い続ける勇者ラダメスを凛々しく演じた。
かなり激しく動いても息を乱さず歌い続ける根性も見事。
安蘭けいに、男役だった片鱗はまるでない。
もともと小柄なせいもあり、
長身で胸板の厚い伊礼ラダメスに庇護されるべき存在として
たおやかさが印象的だった。
音域も高音までしっかりと響かせ、「女声」が確立している。
多少音がぶれる音域もあったが、
これから修正されていくことだろう。
ただあの、人をとろかすたような甘い男声とは本当にさよならなんだな、と思うと、
正直さみしさは拭えなかった。
もっとボーイッシュな役柄の安蘭も、やはり見てみたい。
全体に、
アイーダとラダメスが立場に縛られて他人行儀な一幕より、
互いの気持ちを知り合って、離れがたくなる二幕に勢いがある。
それは、
他の演者も含め、自分の気持ちを観客に向って披露する「よびかけ」的な形より、
俳優同士のかけあいこそがこの物語のドラマ性をより引き出す、
ということではないだろうか。
特に地下牢に生きたまま閉じ込められた(たしか原作では砂に生き埋め)
ラダメスのもとにアイーダが死を覚悟して飛び込んでからの二人は、
抱き合ったりうずくまったり、など「歌う」という点から見れば
決して好条件でない態勢にもかかわらず、
あるときは美しく、せつなく、そしてあるときは決然と歌い上げ、
見事というほかはない。
この二人を引き離すことは誰にもできない、というオーラが
社会は許さなくても地下の王国で二人の魂は自由で幸福だということが
すんなり感ぜられる幕切れである。
典型的な敵役であるアムネリスをANZAががんばって務めたこともあり、
ラブストーリーとしては成功している。
だが、
この作品は
「戦いは憎しみを生むだけ。お互いを尊重してこそ平和は訪れる」という
大きなテーマも強く押し出している。
初演時はちょうど9.11の事件の直後であったこともあり、
非常にタイムリーだったと聞く。
意気込みは買うし、大切なテーマではあるが
こちらのほうは、演劇で表現しているというよりは、
セリフ(歌詞)で流れてしまった感が拭えない。
ファラオの「ものわかりのよさ」もちょっと現実味に欠ける。
たとえ「エジプトが一度はエチオピアを解放する」という筋書きは変わらずとも、
ファラオの娘より神官より、
「神の子」であるファラオの描き方にはもっと威厳と超越性がほしかった。
逆にエチオピア王の
「この国はオレのものだ!」という断末魔はあまりに子どもっぽすぎて、
テーマを矮小化しすぎたように思える。
いつの世にもいる「反逆分子」の暴走や権力者の支配欲など
典型的な問題を並べただけでは、新鮮味に欠ける。
ある意味、それらは「劇場型」の現実の中で、いくらでも見てしまっているのだ。
今回の舞台では、アイーダとラダメスだけは
戦いの虚しさや相手を同じ人間として尊重することを知っている、
という設定になっている。
いわば二人は平和のための「早すぎた答え」を持っていたことになる。
「早すぎた」から当時は理解されなかった。
でも今ならなんとかなるのではないか?
「たとえ夢だと思われても」という歌詞は、作者の悲鳴のようでもある。
ただ私は
親と縁を切ってエチオピアの王女ではなくなる、ファラオを守る任からも離れる、
国を捨てて二人で逃げよう、後は野となれ山となれ、という彼らだって
自分たちのことしか考えていない普通の人たちだったのではないかと思うのだ。
二人は「正しかった」から結ばれたのではなく、
ただ離れがたかったからそこにいる。
結ばれれば、他のことはどうなったっていい。
だから強く、
だから美しく、
だから悲しい。
そんなカタルシスに、「正論」は遠吠えのようにこだまするだけだ。
人々は憎み、愛し、怒り、悲しみ、そして死んでいく。
私たちは、
誰もが考えが浅く愚かで、自分のことしか考えないために、
世の中の悲劇は起こってしまうんだな、ということを
リアルに追体験するのみである。
しかし「追体験」こそが熱い思いや虚さを体の芯に残す。
そのおき火のようなかすかなひっかかりが
私たちを少しは「答え」に向って歩かせるのではないだろうか。
舞台では、正論は「吐く」ものではなく「滲ませる」ものだということを
つくづく感じた作品ではあった。
*パンフレットは予約しました。10月初めに郵送されてくるとのことです。
もうちょっと早くならないかなー。
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「アイーダ」@東京フォーラムC
- ミュージカル・オペラ
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