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ジキルとハイド

ジキルとハイド」は、2001年の初演からずっと
タイトル・ロールは鹿賀丈史、ルーシーはマルシア。
この2人が再演に再演を重ねて織り上げた、上質のタピストリー。!
脚本・作詞を手がけたレスリー・ブッカスは、初演当時すでに
「世界中のどの『ジキルとハイド』よりもすばらしい」との賞賛を惜しまなかった。
そうだろう、そうだろう。
実は、テレビ番組で「本場」の「ジキル&ハイド」の一部を見たことがあったのだが、
はっきりいってあまり心動かされなかった。
それで「本場であの出来じゃ、日本のものを見てもしかたないか」と勝手に判断していたのだ。
しかし、それは大いなる間違い。
鹿賀丈史のジキル&ハイド、マルシアのルーシーは、
このままどこで公演しても高く評価されるはずだ。
特に、マルシア。
歌手としての力量の違いを見せつける。
場末のパブで踊るショー仕立ての「連れてきて」は、ほとんどマルシアのリサイタル状態。
歌がもつドラマを余すことなく披露して、
それまで多少説明的・もたつきぎみで散漫になっていた劇場の空気を、一気にまとめあげる。
すると鹿賀の調子も上がってきて、
ハイドに変身してからは「鹿賀ワールド」全開である!
ここへきて、彼が「ハイド」とのコントラストのために、抑制された「ジキル」を演じていたことがよくわかるのだ。
鹿賀のハイドは圧倒的な魅力を放つ。
「人間の中の善と悪を分離して、悪をコントロールすれば、戦争もなくなる」というジキルの理論を蹴散らし、どんどん大きくなるハイドの影。
鹿賀ハイドは、まるでジキルをあざ笑うかのように、
「悪」がどれほど人間を惹きつけるか、観客にまで実証してみせるのだ。
それにしても、マルシア。
歌詞にある言葉の一つひとつを自分の感情にして、一息ごとに声の表情を変える。
ある時は希望、ある時は絶望。
ある時は官能、ある時は憧れ。
場末の娼婦の中に処女性を宿すその演技は、きっと欧米でも通用するだろう。
女のすべてを歌にこめて、その上「声」の強靭さは声の大小を問わない。
ピアニッシモでも劇場全体を覆う、マルシアの声。
丁寧に発せられる鼻濁音の美しさにも舌を巻く。
その秘密は、大きく開いた口を出口として、体全体をチェロの胴のように共鳴させる技術だ。
ジキルの婚約者・鈴木蘭々も美しく正確なメロディを歌っているが、
その発声において、観客の本能にコトバが届かないのである。
アンサンブルは重厚で全体を押し上げていたが、脇のソロにはもう一段上の完成度を要求したい。
「ジキルとハイド」というと、二重人格の代名詞となってしまって、
私も含め、あまりストーリーを深く知らない人が多いと思う。
今回、この舞台に触れて、考えることがたくさんあった。
ジキルは人間の中の「悪」をなんとかしたい。
「悪」はコントロールできると思っている。
しかし、「悪」を取り出した時、それは「善」によるコントロールがきかない「悪」として、
とてつもないエネルギーとなる。
その上「ハイド」は、どこかの誰かのどうしようもない「悪」ではなく、
自分自身の中にある「悪」の純粋培養なのである。
ジキルは「もう一つの自分」を見せつけられ、それが自分であることを認めざるをえない。
そこが、ジキルの絶望なのだ。
ハイドによって傷つけられたルーシーの背中に薬をすり込みながら、
「すまない、すまない」と呟くジキルの哀しみの深さが胸に迫った。
私たちは、善であり、悪である。
殺したいほど憎いヤツがいても、思いとどまる力がある。
「分離」しなくても「コントロール」できてるはず。
「悪」の自分も認めてやろうじゃありませんか!
今回が、鹿賀&マルシアの「ジキルとハイド」ファイナル公演です。
絶対観ましょう! 
世界でもっとも評価された「ジキルとハイド」です。
日生劇場で4月29日まで。

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