昨日は、四季の「ライオン・キング」に失礼な物言いをしたかもしれません。
私は「ミュージカルといえば劇団四季」と思い込み、
長いこと帝劇ミュージカルとか宝塚歌劇を食わず嫌いしていた人間です。
だから、
最近の劇団四季の元気のなさには、心からさみしさを感じています。
「ライオン・キング」や「メンフィス」を見て、
「ビリー・エリオット」や「メアリー・ポピンズ」を見て、
「あ~、日本のミュージカル、かなわないな~」と思った私ですが、
唯一、
「絶対勝ってる!」と胸を張って言えるものがありました。
それは
「市村正親のファントム」です。
「オペラ座の怪人」を見て思ったのは、
第一幕のオペラのシーン、カルロッタのアリアなどを見ると、
ほとんどオペラを見に来たか、というくらいのレベルの高さであるのに対し、
第二幕、ファントムとクリスティーヌの対峙に話が進むと、
がぜん印象がぼやけてきます。
歌がうまくても、やっぱり人物造形とかストーリーの理解とかができていないと、
人は心揺さぶられることはないんです。
「それぞれのコンサート」で聞いた市村さんのファントムは、
やっぱり世界一だった、と確信しました。
人間描写、心理描写をつきつめていくことは、本当に大切なことなのです。
それはどういうことかというならば、
一言でいって、
「自分の問題にどこまで切り込んで向き合えるか」
「その問題についての感情を、どこまで具現化できるか」
ということなのではないでしょうか。
「ライオン・キング」はアフリカン・アメリカンのルーツ礼讃です。
奴隷としてアメリカにつれてこられた人々が遠く偲ぶ「アフリカのリズム」を
考え抜いた作品です。
「メンフィス」は、白人が黒人を差別してきた歴史に切り込みます。
それはずっと昔のことではなく、たかだか40年か50年かしか経っていない。
自分のお父さんが、おばあさんが、実際に体験した出来事です。
今は肩を並べて「平等」に「仲良く」している人たちに、
自分たちがいかにひどいことをしたのかを、心えぐってまで伝えようとする話です。
「メアリー・ポピンズ」は一見子どものための気楽なミュージカルに見えますが、
厳格な乳母(ナニー)にしつけられて育った父親が
自分の子どもたちにも「厳格さ」が必要といって子どもの夢や遊びを奪うだけでなく、
自分も仕事に忙殺されて家庭を振り返ることもできぬまま、
やがて事業のほうも左前になって苦しむ。
一方妻は、
そんな夫の手助けをしたいしアドバイスもしたいけれど、
専業主婦の自分にそんな権利はないと思い込んでいる。
子どもに「なぜパパはそうなの?」と聞かれ「男だから」
「なぜママはそうなの?」と聞かれ「女だから」と答えるところは、
とても象徴的です。
メアリー・ポピンズという不思議な女性は、
当時の「女性」のできないことを軽々とやってのける、スーパーウーマンだったのですね。
メアリーが救ったのは子どもではなく、奥さんのほうだった、というのが
私の感想です。
古いタイプのミュージカルですが、作られた時代の「向き合うべきもの」に
きちんと対峙していると思いました。
「ビリー・エリオット」も、
サッチャー政権での炭鉱ストライキ、組合つぶしをテーマとする
政治的にも骨太な作品です。
それを「バレエ」とからめて超一流のエンターテインメントにする力がすごいです。
力のある作品は、骨太のテーマを持っている。
その「骨太」をしっかり理解せずに歌い踊っていても、
うわべだけにすぎず、感動を呼ばないのだと思います。
さきほど述べた市村さんの「オペラ座の怪人」のほかにも、
「ジキル&ハイド」「モーツァルト!」など、
日本でやった日本人によるミュージカルで私が魂射抜かれたものもたくさんあります。
だから、
「日本人がやったってしょうがないよね」っていうことは、絶対にない!
ただ
やり方、向き合い方だと思うのです。
俳優の方々にはさらにがんばってもらうのはもちろんですが、
演出にこそカギがあるように思う。
昨日書いた「多文化をリスペクトしながら自分の土俵で闘う」やり方です。
すぐにアジア的にやっちゃう蜷川さんは、これですね。
でも最初にやったのは、浅利慶太さんだと思う。
劇団四季の「ジーザスクライスト・スーパースター(ジャポネスクバージョン)」は、
本当に素晴らしい演出です。
ものの本質を抜き出して、日本人ならではの様式美を採り入れた。
こういうやり方は、参考にするべきだと思いました。
でも、
きっと「形」じゃないんだと思う。
演出家が、俳優が、その物語を、そのキャラクターを、自分の抱えている問題に引きつけて、
血の涙を流し、お腹のものをさらけ出すくらいの入れ込みようをしたときに、
その「テーマ」が本来と少しずれたとしても
きっと感動を呼ぶのだと思うのです。
それが「共感」なのだと思います。
かつて「赤毛もの」というジャンルがありました。
西洋の演劇を明治の日本に紹介するために、
かつらをかぶって「黒髪」でなくして
「とめ」とか「よね」とかいう名前で生きてきた日本の女性が
「エリザベス」とか「クララ」とかになって演じる。
演じるほうも見るほうも、すごーく違和感あったでしょうが、
それはそれで「紹介する」という大切な使命がありました。
でも
今「赤毛もの」をやる意味は?
そこに「赤毛」であろうが「黒髪」であろうが、
人間としての本質が語られていることこそが吸引力となるはず。
「本質」が語られていれば、
もとが英語であろうがドイツ語であろうが、
自分たちのわかる言語=日本語で、
もっともその心理を感受できるコトバを駆使して演じることは
非常に重要なことだと思うのです。
だからこそ、
そこに「自分の問題」はあるのか?
「他人の問題」をやって、「自分の問題」を避けてはいないか?
ここをつきつめる必要があります。
ものを作る人間は、もっと自分に厳しくなければならないんだと思いました。
「おいそれとは答えの出ない問題に、真正面から取り組む」
「傷ついても、あいまいにせずに、自分なりの答えを出す」
そんな作業をしなければ、人を感動させるものなど作れるはずがない。
ふつうの人がもやの中に隠し持っている感情を、引きずりだせるはずがない。
その、
ともすればおぞましささえ伴う、おそろしい「答え」を
ときに美しく、たまには笑いも起きるようなエンタテインメントに!
まさしく
「ちょっぴりハートに、ちょっぴりオツムに…」こそがミュージカルなんだな、と
吉野さんのシカネーダーを思い出す私でありました。
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日本人が洋ものミュージカルをやる意義
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