予告より1日遅れですが、赤坂ACTシアターで上演中の「かもめ」について。
私は若いとき、太宰治が好きだったこともあり、
彼がよく作品の中で言及するチェーホフとはいかなる作家?と多少読んだことはあるのだが、
「かもめ」は未読。
そして、チェーホフ作品自体、そのよさをあまりわからずに終ってしまった。
だから、チェーホフといえば「かもめ」、「かもめ」といえば、ニーナ、というほど
演劇とは切っても切れない作品なのに、
実はワタクシ、最初から最後までしっかり観るのはこれが初。
率直に言って、これほど面白い話だとは思っていなかった。
芸術や創作、表現を志す者たちにとって、こんなに身につまされる話はない。
文学座でも俳優座でも、
ありとあらゆるところでこの「かもめ」が上演され続ける理由がのみこめた。
また、この「かもめ」に先立ち、
井上ひさしの「ロマンス」を観ておいてよかったなー、とつくづく思った。
チェーホフは、ボードヴィル。チェーホフは笑いの人。
それを知っているからこそ、今回の舞台を十分楽しめたのではないだろうか。
小難しい芸術論や、日常が思うようにいかない苛立ちが主流となるこの話は、
ともすれば額にシワを寄せて、大仰に演じられて終る可能性がなきにしもあらず。
そうなると、
所々に散りばめられたバカみたいなおふざけ、コントのようなかけあい、
そんなものは行き場を失い、笑いを誘発できない。
というか、思わず笑うと周りからヒンシュクを買いそうでコワイ。
でも、
チェーホフは、そういうクスッとした笑いが大好きな人だったと知っているから、
深刻な場面の次のお笑いを、素直に笑いの場面として受け入れられた。
それで2時間半という長丁場でありながら、あまり疲れずに楽しめた感がある。
演技陣でさすがと思わせたのが、
藤田弓子、勝部演之、中嶋しゅうの3人。
何度も「かもめ」を演じたことがあり、今回の役も、そうでない役も経験済み。
それもさまざまな演出家のもとで。
「全体が見えている」とでも言おうか。
この戯曲の酸いも甘いも知り尽くしている貫禄、その上で新たに挑戦しようという意欲が、
自然体の演技から滲み出ていた。
「私の記憶が正しければ……」のフレーズではないが、
「劇団時代の教材として、演じたことがある」というのだけが「かもめ」との接点という鹿賀丈史。
この鹿賀の演技(トリゴーリン役)が、非常に素晴らしかった。
作家としての名声をある程度ほしいままとしながらも
「トリゴーリンはいいものを書く。でも、トルストイやツルゲーネフには及ばない」と
ずっと言われ続けるだろう、という焦り。
自分がまだ何者でもなかった若いころの焦り。
いろいろな表現に挑戦するも、結局は自分には「風景描写」以外は大したことない、と
自分で自分の力量を見切ってしまった落胆。
その「風景描写」だって、いつのまにか、同じことの繰り返しになっていないか、という不安。
人からは「いいですね。有名になって」と華やかに思われるけれど、
いつもネタに追われ、生活という生活が文章の奴隷になってしまっている苦しさ。
セリフの一つひとつが非常にリアリティーを持って伝わってくる。
「俺には自分というものがない」などと言って女と女の間を右往左往するいい加減さの裏に、
彼の作家としての深淵をきちっと見せている鹿賀の役者としての洞察力が光った。
対して、
そのトリゴーリンが語る「若いとき」を現在進行中で悩みまくるトレープレフ役は、藤原竜也。
難しい役である。
私は藤原竜也は大好きだし、彼の「ハムレット」は最高だと思う一人ではあるが、
それだけに求めるものも多く、最近の藤原の舞台に満足したことがない。
(「身毒丸」は未見)
今回も、セリフのない場面などでは、その表現の確かさが際立ったものの、
セリフに関しては声が前に出ず、調子も平坦で表現のバラエティは先輩たちの足元にも及ばない。
特に、なぜ最後までニーナの愛に固執するのか、
単なるトリゴーリンへの対抗意識か、それともニーナ本人に対する愛か、
そのあたりに説得力がなかった。
それはまた、
大きくなりたい、認められたい、満足のいくものを完成したいとあがくトレープレフに通じる
苦悩の迷路で、今の藤原が葛藤の真っ最中、ということなのかもしれない。
この山を越えた時に彼が見せる演技に期待。
もう一人の若者、美波のニーナは、輝いていた。
私の考えていたニーナ像とはまったく違ったのだが、
彼女のキラキラと天から降ってくるような声には魅力がある。
特に冒頭、
トレープレフが作った戯曲の中で長いセリフを発するところは、
言葉の後ろに情景が浮かぶ、素晴らしいポエム朗読となっている。
「荒削りな中に、才能が見え隠れして期待を持たせる」ところも、ニーナに合致。
こうして、女優はニーナ体験を体に根付かせながら自分の道を歩いていくのだと思った。
(中川君といい美波さんといい、「エレンディラ」未見がつくづく悔やまれる)
トレープレフの母であり大女優であるアルカージナ役・麻実れいはどうか。
こっけいの上にもこっけいを塗りたくったような
気まぐれで、わがままで、自分勝手で、甘え上手で、独断的な女を、
麻実はコロコロとよくまわる声と、時にかんしゃくでつぶれた叫びを駆使して表現。
愛人との生活に耽り、息子の才能をわかろうとせず、
息子のことなどどうでもいいのかと思うと、実は目の中に入れても痛くないほど溺愛している、
そんな矛盾をかかえた1個の愛すべき人間を、よく表していた。
(きのう紹介した「ハロルドとモード」で杜けあきが演じていたハロルドの母親像に通じるものがある)
マーシャ役は、「エレファントマン」のケンドール夫人役で目を見張った小島聖。
マーシャはトレープレフを慕っているが、
当のトレープレフはニーナにぞっこんで、自分なんかに目もくれない、
そのことに絶望しながらも彼から目を離せない、暗くてフラストレーションのたまった女だ。
その苛立ちの中でも実はどっこい生きている、そんな女のしたたかさがどこかにのぞいたら、
マーシャの人間像にもっと幅が出来たのでは?
チェーホフ風にいえば、もっと笑いがとれるとよかった。
マーシャは、彼女の母親・ポリーナとイメージがダブるように書いてある。
ポリーナ役の藤田の演技は、小島にまた一つ課題を与えたのではないだろうか。
とにかく、演劇の王道中の王道が、ここに繰り広げられる。
日常の普通の会話が、こんなにも普通に、静かに語られているのに、
劇場の空間にはその言葉たちがしっかり飛んでくる。
役者たちの力量がなければ、ちっとも響かない、恐ろしい戯曲である。
「かもめ」は7月12日まで赤坂ACTシアター。その後、大阪、広島、名古屋と公演が続く。
正統派の演劇を、この機会にぜひどうぞ。
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