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「ハムレット」@さいたま芸術劇場大ホール

蜷川幸雄演出、
藤原竜也主演、
平幹二朗、鳳蘭、満島ひかり、満島真之介出演。
それだけで話題になる舞台で、
超プラチナチケットとなりました。
スケジュール決められず出遅れたらもうチケット手に入らず、
毎日「おけぴ」とにらめっこでようやく取れた「ハムレット」。
行ってまいりました。
私がこの「ハムレット」それも
蜷川演出の「ハムレット」なかでも
藤原竜也主演の「ハムレット」に執心なのは、
こちらから、
かつての蜷川ハムレットのレビューを読んでいただければわかると思います。
待ちに待った、
藤原竜也による12年ぶりの「ハムレット」再来。
それも、蜷川のもとで。
以下、率直な意見です。
舞台装置など、ネタバレありますので、
観劇がまだの方はご注意ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12年という年月は、ちょうど干支のひと回りにあたる。
15歳でデビューし、21歳で「ハムレット役者」の仲間入りをした藤原は
その「ひとまわり」でどれだけのものをつかんだのだろうか。
蜷川作品に限らず、多くの舞台を務め、
「デスノート」「カイジ」「るろうに剣心」など、映像の世界でも活躍した。
しかし自身「地に足がついていない」ような頼りなさを覚えていた藤原が
さいたまネクストシアターの「ハムレット」に刺激され、
もう一度蜷川のもとで「ハムレット」をやりたい、と直訴した、と聞く。
「自分自身が何者なのか発見する」ために。
さいたまでの公演も最終版の2/14。
まだ藤原は「自分」をみつけられず、もがき苦しんでいるように感じた。
そこに、
12年前のハムレットはいなかった。
12年後のハムレットもいなかった。
ハムレットという役を演じようとする「藤原竜也」という役者が、
素のままで激しく動いていた、というべきか。
感情の起伏が激しく、
狂ったふりをしながら本当に狂ってしまいそうで、
でも狂気の中を突っ走りながら、頭の芯は驚くほど研ぎ澄まされている
そんなハムレットは、
ちょっと気を許すと人格がバラバラになって
場面と場面の間を生きていくことができなくなる。
ひとつひとつの場面ではさすがと思わせるものはあったものの、
(特に、王妃の寝室の場面、旅の途中でのフォーティンブラスとの交差、
 オフィーリアへの「尼寺へ行け」など)
科白が一本調子なのと、
他の俳優の演技に対するリアクションが乏しいのが目についた。
それが「リアル」なハムレット像の標榜なのかもしれないが、
ここは舞台である。
映像の世界のリアルとは異なる演技体系を求めてしかるべき。
舞台の上で生きつつも、舞台の外の観客の息遣いを意識することが
彼にはできていないように思えた。
タイトルロールの色が乏しい中、
平幹二朗が圧倒的な説得力でクローディアスの苦悩を演じる。
兄嫁と王冠を手に入れる「野望」のため、
実の兄を謀略で殺した罪におののきながら、
「手に入れたものを手放さないで、神に懺悔できるだろうか」と
揺れ動く心のありようを振り幅の広い演技で示した「祈り」の場は白眉。
また、
自ら仕込んだ毒入りの盃を、愛する王妃ガートルードがあおってしまった後の、
クローディアスの表情たるや、
舞台の前面では藤原ハムレットと満島レアティーズが剣をふるい、
スピーディーで緊張感のある殺陣を披露しているにもかかわらず、
まるでカラヴァッヂオの描くゴリアテの首か、ホロフェルネスの首のごとく、
目を見開いてガートルードを見つめ続ける平クローディアスに、
こちらの瞳も釘づけである。
平は先王ハムレットの亡霊役も務めており、
私にとってはもはやこの舞台が「ハムレット」ではなく
「クローディアス」という題名ではなかったかとさえ思われるくらいだった。
この舞台で、
私を演劇的カタルシスにいざなってくれたのは、
上記の平クローディアスのほかには、
鳳蘭演じる王妃ガートルードだ。
最初の一声の、なんと若々しいこと。
ハムレットがクローディアスに嫉妬するほど、
「きれいなお姉さん」ならぬ「美しすぎるお母さん」であったことが
鳳蘭の「声」によって決定づけられた。
美しいから、クローディアスも欲しくなった。そして血迷った。
クローディアスに奪われて、息子のハムレットも爆発した。
そういう「近親相かん」的解釈を全面に出した今回の芝居の
核心をつかみ、つくりあげ、すべてを回したのは、鳳蘭の手腕である。
満島ひかりのオフィーリアは、
役に対する理解不足により未消化。
あまりに現代的な解釈過ぎて、
各場面でのオフィーリア像がバラバラになってしまった。
しかし、
オフィーリアという役は本当に難しい。
蜷川もシェイクスピアも初心者なので、しかたがないだろう。
声の通りのよさや歌のうまさは抜群なので、
何かのきっかけがあれば、きっとよくなると思う。
オフィーリアの兄レアティーズ役の満島真之介も然り。
まっすぐな役を、まっすぐに演じて好感は持てるが、
そんなまっすぐな青年が、なぜクローディアスの「奸計」に
一気に加担してしまうのかに説得力がない。
そこでの「黒い」部分が見えないと、
最後に迷ったり改心したりする部分への橋渡しができない。
蜷川の演出そのものはどうだったろうか。
もっともすばらしかったのは、
前述の「クローディアスの祈り」の場面。
井戸水による禊という日本的なものと、
その後の懺悔の背中に差し込む光というキリスト教的なものとの融合は、
神々しいまでに美しかった。
(この「井戸での禊」は平の提案だとのこと)
次に度肝を抜かれたのが
「ゴンザーゴ殺し」の劇中劇。
歌舞伎の定式幕や付け打ちという図式は珍しくもないが、
その幕が切って落とされたときに出現した雛人形の段飾りは
美しく、そして
一瞬で「ゴンザーゴ殺し」のコンセプトを示す力があった。
このときの、劇中王・竹田和哲、劇中王妃・砂原健佑が健闘。
様式美の中に、人物の心情をしっかりと表現した。
それに先立って行われる「ヘカペ」の嘆きを歌舞伎調で演じ
プリアモスを立役(男役)即座にヘカペを女方という
大門伍朗の実力が際立った。
しかし、
全体を通じて背景に使われる
「19世紀終わりの日本の、貧しい人々が済む長屋」
という大道具のコンセプトが、
いったいどのくらいの意味をなしていたのかは不明。
これがあってもなくても、
舞台全体の様相はあまり変わらなかったのではないかと
私は思う。
「19世紀末の」「日本の」「貧しい」人々は、
物語に何もインボルヴしてこないのだから。
また、
フォーティンブラスの描き方についても
言及しておきたい。
うつむいて、生気なく、小声で話すフォーティンブラス。
それは「あり」だと思った。
「小声」は、フォーティンブラス役の内田健司からの提案だという。
さいたまネクストシアター所属の内田のアプローチを、
蜷川は採用した。
そのことは、「若者」とは何かを常に考える蜷川らしい決断で、
時代をリアルに描きたい彼らしい選択である。
だから「あり」ではあるが、
それでもあの小声はあまりに小声すぎる。
少なくとも、ラストはその「小声」の中に、
「小声」でもデンマークを支配するフォーティンブラスとしての
確固とした生き方が見えなければならない。
弱いなら弱い、
つまらないならつまらない、
やりたくないならやりたくない。
そこが見えなければ、演劇ではない。
内田には、まだそこがわかっていないので、
「リアル」に流れた分、
かえってラストが「段取り」っぽくなってしまった。
声だけ「リアル」でも、
科白は「大時代」なのだから。
内田は「小声」という枷があったから特別だが、
彼を除いても、
全般的に誰もが科白を早口でまくしたて、不明瞭。
あるいは
観客の耳に意味の杭を打てずに左から右へと流れていった。
だから、
平と鳳の科白だけが際立ったともいえる。
早口でまくしたてても3時間半かかるのだから、
ゆっくりしゃべるのは不可能かもしれない。
けれど、
シェイクスピアは科白劇だ。
科白劇で科白が聞こえなかったら、
いったい「ハムレット」を原作通りにやる意義はどこにあるのだろうか。
その意味で、
さいたまネクストシアターの「ハムレット」に
私は感服したのである。
若い俳優の卵たちが、「科白劇」に真っ向から挑み、
シェイクスピアの「科白」の意味をまっすぐに観客に届けたから。
それをふまえての今回の「ハムレット」が
この出来であることが心から残念でならない。
さいたま芸術劇場では2/15(日)が最終日。
これから
大阪、台湾、ロンドンと公演は続く。
蜷川ハムレットの総決算という意味もあるらしい今回の興行。
どんどん進化して評判をとってほしいし、
藤原竜也には厳しい道だが、
ぜひ
生まれ変わってもらいたい。
そしてもう一度、さいたまに凱旋し、
「まいりました」と言わせてほしい。

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