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「ヘンリー六世」@さいたま芸術劇場

昨年の新国立劇場でのプロダクションに続き、
今度は蜷川幸雄演出の「ヘンリー六世」が
さいたま彩の国芸術劇場で昨日初日を開けた。
その膨大な戯曲を新国立では三部構成・約9時間にまとめたが、
蜷川版は二部構成・約7時間。
9時間の舞台を見た者としては、
「あれをどうやってさらに2時間も縮めるのか?」
そこも見所の一つであった。
たくさんの「ヘンリー」「リチャード」「エドワード」「ジョン」が出てくる上に、
演劇のお約束でもある「一人複数役担当」で行うため、
かなりの大物役者にも割り当てられており、
さっきまで重要人物の貴族として長いセリフをものしていた役者が
死んだと思ったら次の場面で肉屋のおっさんになっていたり
さっきフランス人だと思っていたら、二部ではイギリス人だったり、
「ここはどこ?」「あれは誰?」の連続なのだ。
私はそういう「お約束」にも慣れているし、
新国立版をすでに見ているので、
いわば壮大な予習をしたのと同じ。
その上、観劇後にプログラムをくまなく読み、
さらに「英仏百年戦争」なる新書まで読んじゃったのだから、
すじも人間関係もかなりわかってからで蜷川版に臨んでいることになる。
そんな私でも、
正直言って「あれは誰?」を考えつつ見たくらいであるから、
初めて見る人にはかなりタイヘンだったのではないだろうか。
少ない時間(といっても9時間)のなかで、
できるだけ丁寧に(しかし説明口調にならず)場と流れを理解させながら進んだ
新国立版に比べると、
蜷川版は、かなり荒っぽい。
イギリス、フランス、
イギリスのなかでもランカスター系、プランタジネット系、と
めまぐるしく変わる舞台を
何もない白い空間に上から赤バラ、白バラ、白ユリの花がそぞろに降ってくる、
ほとんどそれだけで表そうとしている。
フランスの国の象徴が白ユリであるとか、
イギリスの「薔薇戦争」の発端の話だとか、
そういった基礎知識が少しはないと「あれは何?」の世界が7時間続くことに。
次々と舞台に駆け込んでは駆け抜けていく兵士たちも、
一体どの軍とどの軍が何のために戦っているのか、
甲冑の色や、胸につけた赤バラと白バラの印などでかろうじて想像しうるのみ。
ひと口に言えば、
蜷川版は「筋」でなく「場面」で見せる、の形をとっている。
筋を追うには7時間は短い、と踏んだか。
切りとられた映像がフラッシュのように積み重なっていく感がある。
だからこそ、
俳優の力量によって印象的な場面とそうでない場面がはっきりと分かれる。
つまり、
第一部で乙女ジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)、第二部で王妃マーガレットを演じた
大竹しのぶが、
ほとんどすべてを持っていってしまった、ということなのだ。
それは第一部、
大竹が舞台に出てくる前と後で、すでに勝負が決まっていた、ともいえる。
声の出し方からセリフの通り方から、
プロとアマの違いくらいの差があった。
登場した大竹とからむことにより、
ほかの出演者もテンションが上がって演技がよくなっていったのは、
非常に興味深い現象である。
「のみこまれる」あるいは、「負けられない」という空気が
そこに生まれるのだ。
大竹のすごさは、舞台技術だけでなく、
再現している感情に経験の裏打ちがあるところだ。
純情も、裏切りも、憎しみも、愛情も、呪いも、
彼女が持っている感情は、こちらにもある感情である。
たとえフランスの王妃であっても、イギリスを救うと決めた小娘でも、
観客はその中に、
自分を見つけることができる。
人に認められたいという気持ちや、蔑まれてたまるかといういきがりや、
本当に好きな人と幸せになりたいという願いや、
子どもを思う気持ちや、この子のためなら何でもできるという気迫や、
生きなければというエネルギーや、
すべてを奪われたときの絶望や、
そのすべては「私」と同じ。
その追体験によって、舞台と観客は一体になれる。
ここが名優とそうでないものとの違いだということが如実にわかる、
ある意味残酷な舞台でもあった。
若い俳優では、
イギリスの名将・トールボットの息子、ジョン・トールボットを演じた
石母田史朗、
ヨーク公リチャードの三男で後のリチャード三世(彼主役の戯曲がある)となる、
「あの」リチャード役の高岡蒼甫、
ヨーク公リチャードの四男・幼くして殺されるラトランド役の亜蓮が目を引いた。
トールボット親子が戦場で名誉と親子愛に揺れながら誇りをもって死にゆく場面は、
第一幕の白眉であり、
新国立では父トールボットを木場勝己が演じて場をコントロールしたが、
石母田は
それを息子側から見せて非常に引き込まれた。
若いからこそ、死を知らないからこそ死より生き恥を恐れる、
そのあたりが、父親を軍人として尊敬しているだけでなく
肉親としても深く愛しているのだとわかる表現で秀逸。
その声のたしかさがこれからを期待させる。
高岡は蜷川作品初参加。
やはり声がよかった。よく通る。爆発的な演技のエネルギーに負けない声だ。
「生まれる前、母親の腹の中ですでに美の女神に見放された」自分が、
この世で幸せに感じるためには、人に指図できる身分になってひれ伏させること。
そのために、リチャードが
「どんなときでも笑いながら」悪事をしれっとやってのけるのだ、という悲痛な思いを、
独白場面でしっかりと観客に植えつけることで、
他の登場人物とのからみを重層的に見せていた。
亜蓮はセリフなど技術はまだまだだが、
クリフォードに殺される場面で
本当に恐怖におののき、涙を流しながら必死で命乞いしていた。
パンフレットに「(クリフォードが)夢にまで出てきたくらいこわかった」とあったが、
フィクションにノンフィクションを持ち込めるのは一つの才能である。
いわゆる子役慣れせずに、このまま生の感情を大切にしてほしい。
「主役はヘンリー六世なのに、なんか大竹しのぶのほうが目立っていたよね」
と、帰る道々、あちこちで声がした。
ジャンヌとマーガレットの二役である以上、
それは最初から仕組まれたことでもあり、期待されて作られたものでもあろうが、
「大竹しのぶが目立っていた」は、ある意味両刃の剣である。
日本語バージョンの「ダイバー」記者会見で、
渡辺いっけいが「しのぶ祭りにはさせません」と気概を語ったことが思い出される。
彼女のいいところがたくさん出た舞台ではあったが、
しかしすべてが「しのぶ色」に染まることで、既視感も否めない。
誰かが大竹の違うトーンを引き出し、
あるいは大竹を凌駕する演技で拮抗した緊張感を作り出すことを期待する。
ただ、
この「ヘンリー六世」は、タイトルロールが目立たない話なので、
大竹が、あるいはジャンヌやマーガレットが目立つのは、
無理からぬところである。
しかしその「無理からぬ」作品にあって、
浦井健治は新国立版「ヘンリー六世」の演技が評価され、
読売演劇賞で杉村春子賞を受賞している。
殺し合い、裏切り合いがこれでもかと繰り広げられる時代にあって、
ただ一人「ヘンリー六世」だけが争いを好まない。
弱いし、優柔不断だし、全体のことを考えられるわけでもない。
でも、
「いい人」なのである。
世が世なら、あるいは王でなければ、
もっと彼らしく幸せになってよかった人なのに。
そう思わせる透明感が、浦井にはあった。
天井からのブランコに乗って夢見るように語る独白の場面は忘れがたい。
純白のローブを着た印象が、
鳩のような、カナリアのような、繊細でか細い印象が、最後まで続いた。
その点、
今回の上川隆也は「いい人」というよりむしろ「正しい人」になりすぎて、
ヘンリーの弱さやずるさとのギャップをうまく観客まで届けられていなかったように思う。
基本的に、
新国立の作品が「コメディときどき悲劇」であるのに対し、
今回の蜷川版は「残忍悲劇ときどきコメディ」のトーンが強い。
その点でも新国立版は、
人間の善も悪もないまぜの猥雑な物語を見させられる側に、
好きなところで笑っていいのね、という気楽さをもたせてくれたかもしれない。
「初日」に限っていえば、
新国立劇場の「ヘンリー六世」が初日の時点ですでに、
いかに緻密で完成度が高かったか、そこは再認識した。
ただまだ初日が開いたばかり。
これからさまざまに改良がなされていくことだろう。
*これを書きながら、
 「バトルロワイヤル」って「ヘンリー六世」なのね、と思ってしまいました。
 故・深作欣二監督が「主人公一人だけは人を殺さないんだ」と言っていた。
 弱肉強食なんでもありの世界のなかに、ただ一人「殺さない」という選択肢を持った男。
 それが「ヘンリー六世」がタイトルロールになっている由縁かもしれません。

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