3年前、
新国立劇場で上演されたシェイクスピアの「ヘンリー六世」は
演出、美術、キャスト、どれをとっても素晴らしかった。
「ヘンリー六世」は大長編で、新国立・鵜山仁演出は3部作で約9時間、
その半年後、競作となった蜷川幸雄演出版(さいたま芸術劇場)では2部作約7時間だった。
(そのときのレビューはこちらとこちらそしてこちら。)
その中に出てくるリチャードが主役となる「リチャード三世」。
スピンオフというより「その後の物語」、
薔薇戦争に揺れまくるイングランドがその後どうなったかを描いた物語。
それを、「ヘンリー六世」のキャストのままに、
同じ鵜山仁演出で、
タイトルロールのリチャード三世を岡本健一、
マーガレットを中嶋朋子でつくったのが今回の「リチャード三世」だ。
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今回の白眉は2つ。
1つは前半、
今の王エドワード(今井朋彦)に夫(ヘンリー六世)と息子を殺されたマーガレットが
亡霊のようにして現れ、
瀕死のエドワード王の「次の権力」をめぐって対立する人々に
それぞれ呪いの言葉をかけていくところ。
「エドワード三世」はいろいろな舞台や映画を見たけれど、
この場面がこれほど意味を持つと思ったことはなかった。
マーガレットを演じる中嶋朋子の長いセリフにこめた一つひとつの感情表現が
非常に見事で、
まるで一編の一人芝居を見るかのごとき充実感。
それとともに、
かつて「グリークス」(蜷川幸雄演出)でカサンドラを演じた中嶋が
トロイアの破滅を予言しながらもアポロンの呪いによって誰からも信じられず、
「信じない、カサンドラの言うことなんか、信じない!」と
一笑に付された、あの場面も思い出していた。
「北の国から」で蛍を演じたときから、ずっと天才の冠をつけられていた中嶋だが、
私は彼女の演技にそれほど感銘を受けたことはなかった。
今回、初めて、彼女の才能と、そして成長を全身で感じた次第。
そのマーガレットに「私の代わりに王妃になった者」としてさんざん毒づかれた
エドワード王の王妃エリザベスに扮した那須佐代子が、2つ目の白眉。
「王妃」といっても最近結婚し、連れ子まで連れてきた後妻で、
まあ、いわゆる「後から来た社長夫人が自分の親戚をどんどん重用する人事を乱発」し、
それで政争が巻き起こっている。
自分の権力の源であるエドワード王は瀕死で、
彼との間の幼子を早く王位につけないと、自分の立場が危ういという状態から
この話は始まっている。
冒頭から、窮地に立たされている苛立ちを
クリアな滑舌と王妃らしい立居振舞で好演していたが、特に後半は圧巻の演技だった。
王は死に、幼子はリチャード三世(岡本健一)に殺され、すべてを失って彷徨う後半、
仇ともいえるリチャード三世と出会ったエリザベスは
リチャード三世から思いもよらぬ願いを聞かされる。
息子2人を殺しておいて、残った娘と結婚させてくれ、というのである。
望み通り王冠を戴いたリチャード三世はこのころ、
フランスのブルターニュ地方から攻め入ったリッチモンド(浦井健治)率いる反政府軍と
戦いに入っていた。
リッチモンドはヘンリー六世の親戚(浦井くんの二役です)。
どちらが正統なるイングランド王としてふさわしいか、
リチャード三世は自分の正統性を一層確固たるものにするため、
エリザベスと兄王エドワードの娘、つまり姪と結婚しようとしたのだ。
ありとあらゆる罵声と呪いの言葉を浴びせるエリザベスに対し、リチャード三世は
「たしかに今まで、あなたにはひどいことをした。すべてを奪った。
反省してます。だから悔い改めます。
あなたから奪ったものを全部あなたの娘にあげましょう」という。
さらに
「あなたの娘に私が子を産ませて、その子に引き継がせましょう。
そうすれば、あなたはまた、国母になれる!」とまで!
この場面、実は物語前半の、
リチャード三世がアン王女を口説き落とす場面と対になっている。
夫と舅(夫の父)を殺されたアンは、
その舅の棺の前で、リチャード(このときはグロスター公と呼ばれる)に求婚される。
仇であり、そして「醜い」体をしていて恋愛対象に絶対ならないこの男に対し、
最初、見下し罵倒しツバまで吐いていたアンだったが
「二人を殺したのはあなたの美しさ、あなたへの愛ゆえ」
「だから二人の死にはあなたにも責任がある。いわば私とあなたは共犯者」とか
何が何だかわからないことを言われ続けて、とうとう求婚を受けてしまう。
この場面は非常に有名で、私が見た中ではアル・パチーノが最高に説得力があり、
次が内博貴だったということについてはこちらとこちら、そしてこちらを。
今回のアンは森万紀だった。
丁寧なアンだったが、魅力には乏しかった。
「教科書的な」とでも言おうか。
リチャード三世(グロスター公)の「言葉」に、敢えて乗ってしまう女のずるさや、
若さゆえの軽率さが出ていなかった。
誇り高いけれど未熟。地位と美貌を自認し、直情型で自分を持たない。
でもの未熟だからこそ、アンの魅力は増幅される。そういう役だ。
アンは出番が少ないから、
そこで爆発的に存在感を発揮しないと「この人、必要だった?」みたいな役回りになる。
せっかくの名場面も、残念ながら冗長に感じられた。
一面的というか。
アンが、リチャードの権力に屈しただけでなく、
「女」としてリチャードにほだされていく、その過程がうそっぽい。
それはアンの森の力不足だけでなく、リチャードの岡本も精彩を欠いた。
リチャードの「男」としての魅力が、
不具の体躯や慇懃なものの言いようの陰で、今まで隠されていた
リチャードの「男」としての魅力が、ここではまるで見えてこなかった。
それに対し、
この那須エリザとの絡みの場面は二人の丁々発止が見事で、
リズミカルにたたみかけるところ、ふとペースを変えるつぶやき、自嘲、嘆き、
那須が流れをコントロールしつているようで
やがて岡本が全身全霊で目的を成就しようと襲いかかる気迫が勝り、
最後に
エリザべスが「私は娘に話を持っていかなければならないのだろうか…」と陥落する。
その一瞬に、観客として共感できたのだ。
リチャード三世がエリザベスの、人間の心の中のもっともいやらしくしかし本能的な部分を
一直線に突いてくるところに説得力があり、
エリザベスはリチャードに負けたのではなく、
自分の弱さに負け、頭ではなく「生き延びる」本能によって軍門に降ったということが、
その葛藤と哀しさが、
ひしひしと伝わってきた。
リチャードが「策略」ではなく、「生き延びる」ためにエリザに懇願した。
その「必死さ」のぶつかり合いがリアルであり、劇的であったのだ。
最後にリチャード三世は、「未来の妻へ贈ってくれ」といって、義母に「口づけ」をする。
その強引なキスが、とても効果的だ。
魂のぶつかり合いを経験して、エリザベスは「女」としてリチャードの「男」を感じた。
「男」としての魅力を感じた。
それを象徴していると思った。
サバイバル力とは、生きようとするエネルギーとは、それは、フェロモンに通じる。
だって、生殖行動とは原初的に
「自分一代を超えて生きようとする本能的願い」だったはずだから。
「生きている」を全身で感じられる瞬間を、
那須エリザは岡本リチャードと過ごしたのである。
それは、言葉によるセックスのようなものではなかったか。
自分の身体のなかに、絡みつき、入り込まれるような感触。
私は、
この場面によって、
棺の前でリチャードの求婚を受けるアンの気持ちが初めて分かったような気がする。
…でも…。
岡本くんは、女ごころをわかってなかった感じだな~。
去っていくアンやエリザベスに向けて
「こんな(軽率な心変わりをする)女が今までにいたか?」と嗤うセリフが
あまりに早すぎる。
もっと余韻がほしい。
たとえ「生き延びるためのウソ」であっても、「ウソだぴょーん」じゃぁあんまりだよ。
結婚詐欺は、「結婚」については詐欺師かもしれないけど、
カモに対して本気で恋するくらいじゃないと、っていうでしょ。
あの感じが、岡本リチャードにはなかったな~。
ていうか、
身体的なハンディを強調するあまり、
「オツム」まで子どもぽくする演出って必要だったんだろうか。
卑屈で慇懃であっても、「おばかさん」じゃない。
彼は知能犯で、残忍で、狡猾で、計算高くて、
そして戦いにもそれなりに長けていたはず。
「ヘンリー六世」では武勲も数々あったわけだし。
そういうリチャードでなければ、
国を二分した戦いでリーダーになることはできなかったはず。
「フランス」から攻め入られた国を「守る」ほうのリーダーとして。
ちょっと違和感がありました。
か・な・り・期待して行ったので、
満足はしなかったかな。
浦井健治のリッチモンド、丁寧な役作りでかっこよかったけど、
私のベスト・リッチモンドの川久保くんには及ばなかった。
(川久保くんのリッチモンドについてはこちらを。)
今井朋彦、立川三貴、吉村直、シェイクスピアを知り尽くし、さすがの演技。
小長谷勝彦は小芝居がいぶし銀だった。
脇役だけど、「この人、自分が主役だと思って演ってるな」と思わせるのが、
城全能成と前田一世。
城全は、平幹二朗と麻美れいの「王女メディア」や「冬のライオン」でも光っていた。
前田も発声と存在感があって、これからを期待したい。
今のところ、私のリチャード三世は、やっぱり市村正親がナンバーワンです。
くぐもった感情を秘めた役をやらせたら、この人の右に出る人はなかなかいません。
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