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「ロックンロール」@世田谷パブリックシアター

昨年、蜷川幸雄演出で超大作「コースト・オブ・ユートピア」(三部作)が上演された
トム・ストッパードの作品。
1968年のチェコの話である。
もう40年以上前の話だから、
若い人にはピンとこないかもしれないけれど、
1968年、チェコ、といえば、
それは「プラハの春」という名前で知られ、
東西対立の東、いわゆる共産圏(ソ連を中心とする社会主義国)に
「独自の主張をし、自由を求める人々」が出てきた時代を思い起こさせる。
それは「春」という名がぴったりの、
うっすらと霞がかった、淡くて、うつろいやすく、
やがて強い日差しと緑一色に変わってしまう大地が
一瞬みせた一時の生命の萌芽であり開花として記憶されていた。
自由を求めて行動した人々は、すぐに弾圧され、
気がつくと元通りのあるいはそれ以上に窮屈な生活が始まり、
「チェコの人々」がそれからどうなったかを知るには、
1989年にベルリンの壁が崩壊するまで待たねばならなかった。
「89年」は「68年」をさかさまにした年だね、と
笑顔でプラカードを掲げるチェコ市民を
私はニュース映像で見た記憶がある。
「ロックンロール」は1968年から1989年までの
チェコ人の窒息しそうな思いを、つまり
自由を奪われるとは、自由を勝ち取るとは、そして
当たり前に自由を享受するとは、を
ロック好きでイギリスに住んでいたチェコ人の若者と
彼が師事するチェコ人の教授家族を縦軸、
当時流行ったロックミュージックの音楽とその精神を横軸に、
生活に密着した視点と、「社会主義」というイデオロギーとの両面から描いた
作品である。
つまり、
ものすごーーーく、政治的な要素の強い、ある意味難解な話なのだ。
世界史で少しお勉強した人じゃないと、
教授(市村正親)がぶちあげるマルクス的哲学論争は理解しにくいかもしれない。
自由がないといいながら、
チェコとロンドンを行き来できるしくみも、腑に落ちないかもしれない。
イギリスに住んでてチェコ人、とか、
チェコ人だけどユダヤ人、とか、
日本人にはすんなりと頭に入らないことが多いかもしれない。
暗転のたびに流されるロックミュージック
(レコードジャケットが幕に映し出される)も、
「ああ、この曲、あのころ流行ったよね」と思い出せる人と、全然知らない人とでは
効果のほどはかなり違うように思う。
しかし、そういう時代が、あった。
イデオロギーのために人が命をかけた時代であり、
ロックは単なる音楽のジャンルではなく、既成概念への抵抗と同意義だった時代であり、
若者が一切のオトナ常識を否定して、世界中が爆発した時代だった。
「社会主義」によってファシズムから解放されたことを誇りに思う人々がいて、
「社会主義」が理想だというイメージが社会主義国以外の国に存在した一方で、
閉ざされた社会主義国では自由が認められていなかったというのに
その情報が出にくかった時代でもあった。
そしてもう一つ重要なのは、
トム・ストッパード自身がチェコ人であり、ナチスを逃れるために亡命、
シンガポールからイギリスに渡ったという経歴を持っていることだ。
そう、
これは彼にとって、書かねばならない物語だったのである。
市村正親は、共産党の良心を信じ続け、擁護しつつも
その実態に深く失望し、傷つく骨太の老教授マックスを好演。
難しい話が空回りしないように自分にひきつけて咀嚼しているところはさすがだ。
トムの分身と思える主人公ヤンの、複雑な心境を、
非常に淡々と、しかし思いを込めて演じた武田真治もよかった。
彼の、時にわがままに思えるくらいの飄々さが、
40年という時の隔たりを一気に飛び越えて、
今の若者にとって当時がいかに理不尽かを体現してみせていた。
ヤンの友人フェルディナンド役の山内圭哉は
「醜男」に続いて私の心をわしづかみ。
政治的に動く、ということの誇りと危険を、
鮮やかなセリフ術と、コミカルな間合いを駆使して表現。
信念の男のカッコよさとカッコ悪さを見せてくれた。
しかしなんといってもマックスの妻役エレナの秋山菜津子だろう。
男たちが「社会主義」について頭でっかちな論争に明け暮れ、
マックスが「神」や「魂」を(社会主義者らしく)否定すると、
エレナは烈火のごとく怒り始める。
彼女は大切な乳房を病気で失くしている。そして命の限りを悟っている。
「たとえ乳房がなくなっても、私は女。
 体と一緒に魂も亡くなってしまうなんて。
 魂の問題を、そんなふうに扱わないで!」
彼女の叫びは実存の叫びだ。
「宗教」とか「神」とか「主義」とか、
「形而上」「形而下」などとすっぱり割り切れぬ、
まるごと生きている人間としての実感だ。
もう、あと少しで自分が消えてなくなってしまうかもしれない、
その不安。その焦り。その哀しみ。そして、怒り。
ほかの場面がすべてわからなくても
この場面だけは、誰もが共感し、理解し、心にしみたことだろう。
社会主義を真正面から、
批判一辺倒でもなく、だからといって肯定もせず、
そこに生きる人々の目を通して淡々と描く物語は少ない。
「主義」のためでなく「自分」のために闘った、
あの人、この人。
その人たちが作り上げたシステムのはずが、
いつのまにか「自分」は切り捨てられ、「主義」だけが1人歩きする世の中。
常識が非常識に、非常識が常識に。
世間の、人間の、うつろいやすさ、そしてもろさも垣間見える舞台である。
武田真治の達観した瞳に、人生の哀しさが投影されていた。

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