シアターコクーンで野田秀樹作・演出の「ロープ」を観てきました。(NODA・MAP第12回公演)
「ロープ」というタイトルは、プロレスのリングに使われるロープであり、
「ここの中で起きたことに演出されストーリーがあるはず」という空間の意味で、
もっといえばフィクションとノンフィクションとの境目であり、
それはやがて「たとえそれが『現実』であっても、
区切られることによって『非現実』と思いこめる空間」へと転移していく。
9.11も、イラク戦争も、四角いテレビの中ではハリウッド映画と変らないように見える。
しかし、その四角い空間の中では本物の血が流れ、
「正しい暴力とそうでない暴力」の戦いではなく、「やるかやられるか」の戦いだけがある。
それを煽っているのは、四角いロープの外の人間。
実況するマスコミであり、視聴者であり、そして・・・。
史実をもとにした虐殺の現場を、
宮沢りえが透き通った声で淡々と、そして興奮ぎみに実況する、その声が胸に響く。
そして、考えずにはいられない。
私たちは何を見たいの?
何のために?
何がおもしろくて?
野田秀樹は、30年ほど前「夢の遊民社」という劇団で大ブレークしてから、
ずっと演劇界の一翼を担ってきた人です。
スピード感あふれ、少年のファンタジーと遊び心満載の手法は、
当時の小劇団をあっという間に「ユーミンシャ」色に染めていったほどでした。
そうした「遊眠社」的演劇が好きな人にとって、
この「ロープ」には、少々違和感を覚えたかもしれません。
ギラギラしたナイフを懐深く隠し持っているとはいえ、
それは入れ子の中の、そのまた入れ子の入れ子に組み込んで、
表面は過剰なまでの、ギャグとサービス精神。
それが野田ワールドじゃないか?
しかし今回は、随所に野田特有の笑いはあるものの、
全体を覆うのは悲壮感です。
どうした? 軽妙洒脱で人を食ったような野田ラビリンスは、一体どこへ?
これは、事件なのです。
野田秀樹が、本気で真正面から社会に物申すようになった。
遊んでいる場合じゃない、と。
遊んで眠っているうちに、この世は滅びるよ、と。
すべてのフィクションは、フィクションを通じて現実(真実)を知るためにあったはずなのに、
私たちは生身の人間の周りに起きていることすら、マンガの中のヒトコマみたいにしか
感じられなくなってはいないか?
ラストシーン、
藤原竜也が「どうか、どうか・・・」と呟くとき、
それは、野田秀樹の祈りにも似た絶叫に聞こえます。
どうか、どうか、この世が続きますように、と。
そのために、たとえ「純情」といわれようが、「青臭い」といわれようが、
自分にできることはすべてやるよ、と。
出演者は野田秀樹以下、藤原竜也、宮沢りえ、渡辺えり子、宇梶剛士、中村まこと、などなど、
実力者ぞろいで、セリフの通りのすばらしいことといったら、近来にない出来です。
間のとり方、絶妙な掛け合い、トーンの変化の落差に酔いしれます。
私がもっとも心打たれたのは、宮沢りえ。
「タマシイ」という主要な役のほか、一場面に限って子を産んだばかりの母の役もやりましたが、
笠をかぶっていて顔が見えないのに、全身が素晴らしい演技をしていました。
対する藤原竜也が叫ぶ。
「女の言葉はわからなかった。女の言葉はわからなかったが・・・」。
人間の心と心が通うための表現を、役者が体現した感があります。
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