さいたま芸術劇場とシアターコクーンでやってきた
蜷川幸雄演出のいわゆる「シェイクスピアは全部やる!」シリーズ。
私はずいぶん観ているほうだと思うけれど、
実はオールメールの舞台は、1つも見ていません。
1つには、人気のイケメンタレントが抜擢されるので、チケットがとりにくいから。
2つには、喜劇が多いから。
3つには、そのキャストでやる意味はどこにあるのか、あまり食指が動かなかったから。
でも今回は、とても見たいと思ったの。
それは市川猿之助が出るからでもなく、オールメールだからでもない。
「ヴェニスの商人」という作品が好き。
この作品を、蜷川がどう料理するのか。それも、あのキャストで。
そして、感想。
これぞ、オールメールの醍醐味、な作品だった。
考えてみれば当然。ポーシャは男装するわけです。
男が女役をやっていて、女性として男が男装する。このパラドックス。
そこを、中村倫也がこれ以上ないほど美しく、颯爽と、楽しく演じきった。
私は「ヴェニスの商人」について、いろいろ考えてきました。
(ここにお立ち寄りくださるとわかる。少し下のほうにスクロールしてみてね)
その中でも、今回のポーシャは出色の出来だったと思います。
単に見た目が美しいとかではなく、
声の通り方、出し方、女性としてのポーシャの魅力、ポーシャの喜怒哀楽、
お茶目なところ、賢いところ、よく出ていました。
その上で、
「男性として女性を演じながら、女性が男装するという表現を完璧にこなした」のです。
べた褒めですが、本当に素晴らしかった。
一方、猿之助のシャイロックはどうだったか。
キャストの多くが蜷川シェイクスピアに何度も出演したことのある人々である中で、
一人だけ歌舞伎調である猿之助の演技には、正直最初は違和感を感じました。
でも、そのうちにわかってきた。
これはそのまま、キリスト教社会における非キリスト文化のユダヤ人が醸す違和感であり、
もっといえば、西洋文化がギョッとするアジア的な文化のあり方なんだ、と。
また、
シャイロックが「いやな奴」だと観客が感じることも、けっこう新鮮だった。
観客は、特に日本の観客は、弱い方に味方する。
どこかで「自分は弱い」→「弱い方に感情移入」→「弱いほうが正しい」
→「だから、勝つ、あるいは主人公として描かれる」
という図式の中で物語に入り込む。
しかし、
今回は多くの人が、憎らしいことをいうシャイロックではなく、
宗教とか父権とか、そういうものを越え、ただ「好きな人と一緒にいたい」と思って行動する
シャイロックの娘とかポーシャに肩入れして見ていたのではないだろうか。
それは、「ヴェニスの商人」が生まれたときの、原初的な構造を味わったわけで、
今回の芝居はとてもオーソドックスだったんだと思う。
「人肉裁判」がクライマックスではなく、
「若者たちよ、よかったね」の大団円で閉幕が心地よい。
こうした構造の中で、それでもシャイロックのことが気になる。
いやな奴だけど、
「あいつはあのあとどうなるんだろう」と思う。
「私の血は赤い。私だって悲しければ泣く。あなたたちとどこが違うのか」の言葉で
「そういわれりゃそうだよね」と初めて気づくような、そんな感じだ。
いじめられるほうではなく、
いじめるほうの罪悪感がちょっぴり残る、「ヴェニスの商人」だった。
だから、
この舞台は成功だったと思うけれど、
蜷川渾身の作品、とまではいかなかったのではないか、というのが私の正直な感想だ。
シャイロックをどう位置付けるかというところでのコンセプトは当たったが、
舞台装置とか、そういう「舞台空間の創出」という意味では、お手軽だった。
いつもは奥行のある舞台を縦横無尽に使うけれど、
今回は壁があるだけ。
ヴェニスの裁判所、ポーシャの屋敷のある島、シャイロックの家、
場所が変わっても壁は同じ。
だから、色彩とか奇抜な大道具とか、時代性を越えたコンセプトなどで、
ダイナミックに心を動かされる、いわゆる「蜷川マジック」はなかった。
今回は、
蜷川の力というより、俳優の力が大きかったのではないだろうか。
異世界としての猿之助を際立たせられるだけ、
蜷川シェイクスピアの常連たちは、観客に「ヨーロッパ」を
「赤毛もの」ではなく「こっちが普通」に見せてくれた。
そこが、
このシェイクスピアシリーズの歴史の重みである、と思った次第である。
とにかく、
中村倫也という俳優のこれからに、ものすごく注目していきたい。
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