デヴィッド・ルヴォー演出の「人形の家」@シアターコクーンを観る。
イプセンの「人形の家」、といえば、
女の自立の代名詞ともいえるくらい有名。
私のように戯曲を読んだことも、舞台を観たこともない人間でも
主人公のノラがカバンを持ち、ドアを開けて出て行くラストシーンだけは知っている。
なぜ、ノラは家を出て行くのか。
8年の結婚生活、
3人の子ども、
それを振り切って1人で再出発しようとするノラの気持ち。
それを観客が理解できるかできないかが
この芝居の成否を分けるだろう。
今回、演出家のデヴィッド・ルヴォーは、
原作の時代背景を大切にしながらも、
「渋谷という街で、宮沢りえと堤真一が演じる」現代性にも着目、
TVドラマ「SEX AND CITY」などの吹き替え翻訳を担当した
徐賀世子を訳に起用、
「今生きる」私たちの感性を重ねることに成功している。
女は「保護者」である男(父親や夫)の承諾なしに借金できない、など
今とは法律の体系はまったく違うけれど、
そこにある精神性は、100年以上経った今でも全然変わらないんだなー、と
展開されるそれぞれのエピソードに胸がチリチリと痛む。
たとえば。
「あなたに気に入られようとして、いろいろな芸を一生けんめい見せてきた」
というセリフ。
「あなたに嫌われたくなかったから、あなたの好きなように自分を作った」
というくだり。
おそらく、
女は好きな人と両思いになると、誰でも一度はこんなふうにつきあうはずだ。
ノラは夫・ヘルメルから「甘いもの禁止令」を出されている。
だから夫の前では食べない。
でも、時々ナイショで食べる。
「甘いもの」を禁止されている妻はあまりいないだろうけど、
妻が1人で外出するのをいやがる夫、
特に夜の外出や1泊旅行などはもってのほか、という夫は多いんじゃないだろうか。
夫の前では「そんなことしません」といいながら、
「実家の母が・・・」「子どものPTAでどうしても」などといって、
密かに「禁止令」をかいくぐっている妻も、きっとたくさんいると思う。
「そんなことしません」と言うのは、
自分が悪いことをしていると思っているからではない。
「夫に嫌われたくないから」ただ、それだけである。
本当は、
「おかしいよ、そんなこと言うなんて」って思っているから、
ペロっと舌を出しながら、
あるいはみつからないかとドキドキしながら、
妻はあっさりと「禁止令」を破るのだ。
ノラもそう。
「甘いもの」も食べる、
「借金」もする。
だって、夫が病気で、転地療養にお金が必要なんだもの。
父親のサインをもらわなかったのは、
病床の父親にこれ以上の心労をかけたくなかったから。
だから、まったく罪悪感がない。
「私って、いい妻でしょ? 私って、いい娘でしょ?」
夫には「ナイショ」の借金でも、
彼女の心の中では「妻として最高の誇り」。
男に色目を使って「おこづかい」もらうのとは違う。
泥棒するのともちがう。
借りるだけだ。利息も含め、返せばいいだけの話じゃないか。
いつか、おじいさんとおばあさんになったら、
ノラはヘルメルに言いたかった。
「実はね、あの時のお金は、私が借金したの。
あなたは借金をいやがるから言わなかったけど、
私の采配がなかったら、あなた、死んでたのよ。
ナイショにしててごめんなさい。でも、ほめてくれるわよね」
また、
ノラはヘルメルから「浪費グセがある」と思われている。
たしかに、
夫のため、子どものためにお金を使うとき、ノラにためらいはない。
家族に尽くすのが、彼女の幸せだからだ。
「これくらい、そろえてあげなくちゃ」
でも、
自分のためには使わない。
本当は、こんな良妻賢母はそうそういないのである。
ただ一つ、
彼女には借金がある。
それも、ナイショの借金が。
夫のためにした借金が。
そのナイショがばらされてしまうかもしれないという
数日間の心の揺れを、
今回、宮沢りえはよく通る声とくるくると変わる表情で、よく表した。
笑顔、不安、懇願、祈り、怒り、そして、絶望。
自分がしでかしたことの愚かさを知ってなお、
ノラは心の底では信じていた。
「きっとヘルメルはわかってくれる。絶対、わかってくれる!」
そのかすかな希望が踏みにじられたとき、
ノラは悟るのだ。
夫と自分は、価値観がちがう。
もっとも大切だと思うものが、ちがう。
彼にとって、
自分には非の打ち所がなく、私は間違いだらけ。
そして
私は自分より夫を大事にしているのに、
夫は私より、自分のほうが大事なんだ・・・。
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「決意」の後、
ノラは白いシャツと黒のタイトスカートで現われる。
パニエを仕込んだ裾広がりのドレスは脱ぎ捨てた。
ヘルメルの「お気に入り」のふりは、もうやめた。
「私は、物乞いのように生きてきた」というセリフが胸に突き刺さる。
「ねえ、●●に行ってもいい?」
「ねえ、●●を買ってもいい?」
「ねえ、怒らない? ●●をしてもいい?」
家族をおいて、友達と旅行に行くとき、
ちょっと高価なものを買いたいとき、
仕事を始めたいとき。
専業主婦は、まず夫の顔色をうかがう。
「許してくれるかしら?」
同じ人間なのに。
対等な夫婦なのに。
愛し合ったもの同士なのに。
なぜ、「許して」もらわないとならないんだろう。
自分の希望を言い出そうと考えるだけで、
なぜ、こんなにも胸に重しがのしかかるんだろう。
どうして、怒られる予感がするんだろう。
ノラは出て行く。
「もう愛していない」と断言して出て行く。
「愛していない人間の子どもを、3人も産んでしまった」と後悔して。
それでも
夫や子どものことをきっと思い出すだろうと覚悟しながら。
私は夫を愛している。
私は、ドアの向こうへは出て行かない。
でも、
ノラの気持ちはよくわかる。
ノラを理解できていないくせに、
「そのうち理解できる」と確信している哀れな夫・ヘルメルの気持ちも。
この舞台を観て、
「現代に通じる」と評する人は多い。
でも、その理由として
「ノラは、買い物依存症の妻や、現代サラ金事情をほうふつとさせる」というのは、
違うと思う。
これは「女の誇り」の物語だ。
「名誉を傷つけられた」といって、ありったけの暴言を吐く夫を目の当たりにして、
「私(の名誉)はどうなるの?」
と、切り返す物語。
そして、
最後は夫が尻拭いしてくれる、と、どこかで考えていた自分に対し、
「私、バカだったわ」と気づく、物語なのである。
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