9月8日、ルテアトル銀座で美輪明宏主演の「双頭の鷲」を観ました。
美輪明宏の舞台を生で見るのは、今年春の「黒蜥蜴」以来。
「黒蜥蜴」のウェルメイド感、形式美に惚れて、
今回の「双頭の鷲」のチケットをとったのです。
「黒蜥蜴」の原作戯曲は三島由紀夫、
「双頭の鷲」の原作戯曲はジャン・コクトー。
美輪が、いかに芸術とか美意識とかを大切にしているかが
これだけでもよくわかります。
いろいろ思うことがあり、
1日では語りつくせないと思ったので、
何回かに分けて書くことにしました。
今日は、あらすじについて。
ですから、
これから舞台を観に行く予定のある方で、
予備知識なしでご覧になりたい場合、
舞台から受ける第一印象を大切にしたい場合は
観劇の後にお読みください。
逆に、
擬古的(古めかしい格調の高さをなぞった作りの)演劇になじみがなく、
「どういう話かくらいは知っておきたい」という方は、
先にお読みになっても大丈夫。
すじは追っていますが、場面の解説はあまりありません。
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「双頭の鷲」とは、
婚礼の日に夫(=国王)を暗殺されて以来、
喪のベールをかぶり、公式の席にはまったく姿を現さず、
直近の人にも許された2人にしか顔を見せぬまま、
死んだように10年を過ごした王妃の人生が、
刺客スタニスラスの突然の闖入によって大きく変貌する
3日間の物語です。
コクトーが名優ジャン・マレーのために書いたといわれる戯曲は、
史実に忠実ではないものの、はしばしに「女王=エリザベート」をほうふつとさせ、
華やかで、謎と陰謀に満ち溢れ、死と隣り合わせの緊張感の中で進みます。
嵐の夜、王妃は影膳を前に亡き王との晩餐を楽しんでいました。
稲光とともに窓から飛び込んできた手負いの男が、
亡き王フレデリックに瓜二つだったことから、
嫁いだその日に未亡人になってから10年間、
「この世に生きる価値もない」と無聊をかこって
死んだように生きていた王妃は、2つの楽しみを得ます。
一つ。
フレデリック似のスタニスラスとともに、
フレデリックとは経験しえなかった10年前の蜜月を疑似体験する。
一つ。
スタニスラスの手によって死に至り、ようやく亡き夫のもとへと旅立てる。
ところが王妃は、
いったんスタニスラスという生身の若い男を愛してしまうと、
10年の喪とか、亡き王への心中とか、そういった「きれいごと」を越えて
ただ目の前のスタニスラスとの愛の生活がいかに幸福かを実感していきます。
「幸福は醜いものだと思っていた。
不幸こそ価値があると・・・」というセリフは、
王妃の心の変化をとてもよく表していると思いました。
一方、
平民の貧乏詩人として、これまで王妃の批判を続けてきたスタニスラスは、
自分が憎み続けてきた王妃が思い込んでいたような悪女ではなかったこと、
いや、もともと王妃に憧れていたからこそ
自分は憎まれ口をたたいていたんじゃないかということにも気づき、
王妃への愛を深めていきます。
警察に引き渡されないかわりに城の奥深く飼われ、
「3日のうちに私を殺しなさい」
「私の読書係になりなさい」など王妃の命令を受ける立場でありながら、
スタニスラスは次第に王妃の優位に立ち、彼女の心を動かしていきます。
「僕たちは2つの頭をもった一羽の鷲。1人が死んだら、もう1人も死ぬ」と、
高らかに愛を宣言し、
その一方、現実路線で二人が生き残るための道を画策し始める二人。
しかし。
陰謀渦巻く宮廷政治は、二人のおままごとを許してはくれません。
平民政治犯と未亡人の王妃との恋は、
王妃の政敵・皇太后と、皇太后とタッグを組む警視総監・フォエン公爵の
格好の餌食となります。
王妃を愛するスタニスラスは、
どうがんばっても自分の存在が王妃を窮地に追いやると知り、
死を決意します。
王妃は王妃で、
スタニスラスが死んでしまえば自分の幸せはない、と
大芝居を打って自分も死んでしまおうと覚悟を決めます。
出会いから3日目。
二人の間に通った濃密な交流があってもなくても、
やはり「死」は訪れる。
でも、その「死」の意味は、
王妃にとってまったく違うものになっていたのでした・・・。
明日は、
原作者ジャン・コクトーが脚本を手掛け、
初演舞台の主演ジャン・マレーが主演した映画「双頭の鷲」と
美輪明宏の舞台とを比較しながら、
戯曲とお芝居について話したいと思います。
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