浮世絵の大家であり、春画の作者としても名高かった渓斎英泉、
又の名を淫乱斎英泉。
彼と同時代の蘭学者・高野長英を結びつけ、
生きることの表と裏を描いた作品が矢代静一作「淫乱斎英泉」だ。
高野長英に浅野和之、英泉に山路和弘、
長英を慕う、英泉の腹違いの妹・お峰を田中美里、
英泉の春画のお得意さま・大店越後屋の若旦那が木下政治、
英泉が営んだ女郎屋の女で後に越後屋の後添いとなるお半に高橋由美子。
そうそうたる顔ぶれである。
方形の座敷をダイヤモンド型に置いて観客席に一角を突き出し、
背景になる二辺には障子を配して
その奥を場面によって廊下や庭などに見立てる。
美術も悪くない。
大御所・矢代静一の本を、鈴木裕美が演出する歴史ものだから
かなり期待して観に行った。
しかし、休憩をはさんで約3時間の長丁場、
ときに記憶が薄れること数回。
なんにしても、説明台詞が多すぎる。
しょっぱな、
時空のひずみのようなところで影の女が高野長英にむかって
「高野長英さんですね。
あなたは●●年にどうしてこうして、……」と
本人に向かって本人の経歴を確認するところが、まずいけない。
自分の夫が政治の渦に巻き込まれていて、
長英と似たような境遇なのだ、というけれど、
ラストに彼女の見つけた「答え」があまりにも陳腐で、
この「影の女」の存在自体、必要なのかどうか、それもあやしい。
歴史ものだから、
史実にある程度忠実である必要があるし、
背景をある程度観客に知っていてもらいたい気持ちもわかる。
でも、
演劇は感性の芸術。想像力の娯楽。
この話、ある蘭学者が政治にも首をつっこみお尋ねものになって投獄され、
……っていうことさえわかれば、
高野長英の経歴なんかわからなくたって、十分話についていけるのに。
英泉だって、実在の人物だろうがフィクションだろうが、
単なる当代きっての浮世絵師かつ生活は破壊的、ということさえわかればよい。
そうやって台詞を半分くらいけずってもらえれば、
かなり面白かったのではないかな、と思う。
前半は、山路の英泉の独壇場。
特に一幕最後、猫と侍との魂が入れ替わる、という作り話を滔々としゃべりながら、
義理の妹に対する絶望的な恋心を初めて口にする場面がせつない。
逆に浅野は、後半の、逃亡生活に入ってからのほうが生き生きとしている。
(それにしても前半、浅野に27歳の若者の役はキビシイ)
田中も、世話になった義兄の英泉の言うなりに動く十代を演じた前半より
年増になって少しあばずれた後半がよい。
よいにはよいが、
このお峰という女、
本当は長英と英泉と、どちらのことを好いていたのか。
そこが話の肝だというのに、あやふやなままである。
最初から最後まで、義兄のためにこそ長英に尽くしたとするほうが、
ずっと筋が通ると思うのだが。
同じ女性として、ちょっと感情移入の難しい役だった。
それに比べると、高橋演ずるお半はわかりやすい。
前半、おつむの弱い感じを出しすぎの感はあるものの、
ストレートに喜怒哀楽をつかめる者ほど幸せをつかめる、ということを
彼女が体現してくれていた。
アタマで考えすぎるとうまくいかない、というのは、
長英だけでなく、この舞台そのものにもいえるような気がした。
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