アメリカ中部の小さな町の小さな裏庭を舞台に、
老境にさしかかった4人姉妹とその連れ合いや子供たちをめぐる、
ハートフル・コメディ。
裏庭をはさんで肩を寄せ合うようにして暮らしている
三女のアイダの3人親子と、二女コーラの夫婦。
独身の四女アリーは、10代のとき両親に死に別れて以来、コーラの家に同居している。
長女エスティとその連れ合いデイビッドは、近くに家を構えているが、
デイビッドは大学教授で、アイダやコーラの家を妻が訪れるのが気に入らない。
「あいつらといるとバカが感染る」的嫌悪。
「今度黙ってあの家に行ったら、1階と2階に、別々に住むぞ!」と宣言している。
だからエスティの悩みは、実の妹たちとさえ自由にあえない息苦しさ。
アイダの悩みは、すでに30歳をすぎた息子ホーマーが結婚しないことと、
夫カールが時々「人生の岐路で道を誤った!」といって、ひどく落ち込むこと。
コーラの悩みは、結婚してこの方、夫婦水入らずのときを過ごしたことがないこと。
この分じゃホーマーは結婚しそうにないから、
アイダ夫妻がホーマーの独立のために買ってある家を借りて、
夫のセオと二人きりで過ごすのが夢だ。
今の家はアリーにあげればいいから。
しかし、
アリーはそんなこと望んでない。
アリーは、セオが好きだから。
アリーは17歳からここで3人で暮らして、もう50歳。
今「独り」になったら、
今までの自分の人生、一体なんだったんだ?って思ってる。
セオも、アリーをほってはおけない。
コーラの悩みは、とっても深い。
そんなとき、ホーマーが婚約者のマートルを連れてきた。
婚約者、といっても7年も婚約したまま態度を決められないでいる。
マートルは「親に合わせるってことは、今日こそきっと…」といろめきたつものの、
かえってホーマーの「ママをおいてはいかれない」心情を目の当たりにして……。
この話、P.オズボーンという人が書いていて、
トニー賞の数部門を受賞したこともあるというのだけれど、
アメリカ人がやるか日本人がやるかで、
まったく話のトーンが違ってくるのではないだろうか。
「夫婦二人で住む」「子供は早めに独立させる」という前提があるのと、
「親兄弟で近くに住む」「嫁いだら、家に入る」という前提があるのとでは
この話のインパクトや息苦しさは全然違うと思う。
終盤、マートルが
「お母さんと一緒に住めばいいじゃない」とホーマーに言うところなんて、
日本人からすれば、昔なら「当たり前」で、ほめられも何もしない。
今なら「いい子だね~」「えらいね~」あるいは
「そんな安請け合いして大丈夫? 同居はタイヘンだよ~」あたりでは?
「えーーーーー?? なんでなんで? どうしてそんなこと考えるの?」
みたいな反応、あんまりないと思うな。
今じゃ「嫁として同居」はないけど「母と同居」は多いし。
私たちにとって、この決断は常識の範囲内だと感じる。
ことほど左様に
この話の設定には、「日本っぽさ」がある。
ラストシーンはあまりに見事なはずし方っていうか、お気楽なオチだったので、
「これって松竹新喜劇じゃないかしら」とさえ思った。
どこからか「♪スチャラカスチャラカ♪」と音楽が流れて
廻り舞台がゆっくりと廻って場面が変わる、みたいな~。
コーラは藤山直美かしらん。
江戸時代、長屋住まいの世話女房は四人姉妹の次女。
両親が死んで末の妹(四女)の面倒を誰がみる、というときに、
気持ちのやさしい夫が「うちに来ればいいよ」と言ってくれた。
でもそのやさしさが、いつしか彼女の心の奥に1本の針となって
時々チクリと痛む。
私がお産で家を空けていたあのとき、
若くてきれいな妹は、この狭い家に夫と二人っきりだった…。
長屋のすぐとなりには三女夫婦が住んでいる。
彼女の亭主は「世が世なら」が口癖で、
何かというと「おれはこんな吹き溜まりでくすぶってるような男じゃない」と
世を嘆き、家族を顧みず、ぷいと家を出てはひょっこり帰ってくる。
そんな父親に振り回される母のさびしい背中を見て育った息子は、
自分が母を支えなければ、と思い込んでいる。
一方、玉の輿で山の手のお屋敷に住んでる長女は、
婚家に遠慮してなかなか妹たちと会えない。
たまに「散歩」とか言って内緒でちょっとだけ顔を出しにくるのだけれど、
ついつい長っちりになって、また夫の不興を買ってしまう。
世話になっている姉の夫に恋してしまった四女は、
長年居候の自分の立場の弱さを見せまいと
かえって突っ張って、わがままで奔放にふるまう。
たった一度だけ、若いときに「あやまち」があったけれど、
誰にも気づかれまいと、それを胸に秘めて暮らしている。
だって、姉のことも、やっぱり好きだから。
けれど、周りの者は2人の「仲」をみーんな知っている。
「あの子は姉の亭主とずーーーーっといい仲なんだ」って
そんなふうに思われているとも知らず、末妹は…。
あるなー。あるなあるな、こんな筋立て。
そしてすったもんだはあるけれど、
妻は夫を見捨てないし、夫は妻に頼ってて、
横恋慕さんが身を引く、っていうことになるのです。
結局すべては元さやに、うまくはまっていくのでした。
マートルのセリフに「みなさん、とてもいい人」というのがあるのだけれど、
この作品は
「何がなんでも夫婦で住まなければ」という観念にとらわれている人に、
「みんなで助け合って支えあって住むのもステキなんじゃない?」
っていう考え方を提示している、そんなお話のような気がする。
とにかくホンワカしたお話なんです。
話は楽しいし、時々しみじみするし、
だから泣いたり笑ったり、のどかなひとときを過ごさせてもらったけれど、
「満足」したかっていうと、ちょっとものたりない。
日本の女性には
「親の面倒をみる」「嫁という立場」という「道徳」が先に立って
「同居」の息苦しさ、血の濃い関係の煩わしさを声高に言えなかった歴史が
長く続いてきました。
女性はありとあらゆる場面で
「家族なんだから」「あんたが我慢すればうまくいく」と言われて
言いたいことをぐっと呑み込んで引き下がってきました。
だから
がまんした結果が「たまたま『いい人』たちだったから」迎えられた
そんなリスキーなハッピーエンドじゃ、
生ぬるい気がします。
作品に対してちょっと辛口になってしまったのには、
もう一つわけがある。
このお芝居、「女性へのオマージュ」という冠がついているんです。
「女性の視点に重点のおかれた脚本は意外と少ない」中で、これを選んだ、と。
このお話のどこが「女性の視点」なのかなー、と。
そこに疑問を持ってしまいました。
コーラは「うすうす」夫とアリーの仲を感じてはいたけれど、
確証は何もなかった。
でも最後に「たった一度」のことを書いた手紙を読む。
ていうか、エスティに「読ませられる」。
あんまり酷で、かわいそうだった。
けれどコーラはそのことで、夫にも妹にもなーんにも言わないの。
ありかしら? そんなこと。
「知ってしまった」ら、もうそれは消せない。
「過ち」がいつ行われたか、ではなく、
疑惑が確信に変わったときから、本当の苦しみは始まる。
心をえぐられた痛みが消えるには、「知った」時から何十年ってかかる。
手紙読んだ直後に、姉妹で抱き合って泣くっていうシチュエーションは、
私には理解できない。
人間、そんなにご立派じゃない。
ぶったり叩いたり、
それができないでも顔合わせたくなかったり口利かなかったり。
そうやって、少しずつ少しずつ、自分をなでなでしてだまして
そのうち「オトナ」になって
「知ってたわよ、私だって」とか
「いいじゃない、昔のことよ」とか言えるようになるのさ。
妻の妹と一度過ちを犯しておいて、そのことを妻に詫びもせず、
「かわいそうだよ」とか言いつつ二人の女とのうのうと同居している男は、
全然断罪されないし。
結局すべての人が現状維持で冒険せず、元のさやに納まるお話。
日本人にとって女性の、妻の、母の、美徳とされること一つひとつを、
ね、そうでしょ?って念を押されたような窮屈な思いがした。
「女性へのオマージュ」って、
「みんなよくがまんした。えらい!」っていうオマージュなのかしら。
家族というのはいとしくて大切な関係だし、最後は支えになるものだけど、
近しいだけにしがらみもあって、
どんな家族もサスペンスドラマのネタになるような「闇」を
一つや二つは抱えてる。
それがほんとの「事件」にならないのは、
誰もが自分の内なる叫びをじーっと飼いならしているから。
フィクションには、その「叫び」を解き放ってもらいたい。
それが観るほうの願いじゃないか、と私は思う。
最近は「現実の事件」のほうが「フィクション」の先をいってしまって
必ずしも「事実は小説より奇なり」でもありませんが。
「4姉妹」の「女の視点」の話といえば、
やっぱり
向田邦子の「阿修羅のごとく」でしょう。
加藤治子、いしだあゆみ、八千草薫、風吹ジュン ……おお、こわ。
あのくらい「毒」があって、
初めて引き込まれますね。
そして自分が常日頃「女とは、妻とは、母とはかくあるべき」という常識に
いかに毒されているかを痛感するのです。
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