江戸時代、目が見えない人には「当堂」という相互扶助の組合のようなものがあって、
これに入っていれば、音楽とか按摩とか仕事を振られてある意味喰いっぱぐれはなかったらしい。
しかし、人間社会はどこでもヒエラルキー。そして、のし上がるには、カネ、カネ、カネ。
「藪原検校」は、一人の盲目の男が、ありとあらゆる悪事に手を染めながら、
目が見えない人間としての最高位「検校」の地位を27歳で手に入れるまで、
そして、絶頂の一歩手前で奈落の底に落とされてしまうその生涯を
同様に目が見えないが、ひたすら「努力する誠実な、見上げた男」になることで検校まで上りつめた
塙保己一(はなわほきいち・国学者)との対照と連帯を伏線に
「目が見えないもの」への、健常者の持つ見下しと畏れを描いた話である。
古田新太は、ふと見せる愛嬌や寂しそうな横顔に
「どこか、ボタンの掛け違いでこうなってしまったんだよね」と思わせる。
極悪非道、残酷で人の迷惑顧みない大悪人、かつ主役、という難しい役どころの中、
観客をしっかり自分に感情移入させている。
田中裕子の体当たり演技も見ごたえがある。
よく通る艶のある声で、彼女が天下一品の女優であることを再認識。
声といえば、なんといっても壌晴彦だ。
500行以上あるという盲太夫のセリフを、
「ほんとの講談師??」と思わせるほどの力強く美しい節回しで、難なくこなす。
彼がいなければ、この劇は成立しなかったといっても過言ではない。
特に、題材の性質上説明が多くなる前半、彼の「語り」そのものを楽しみながら、
観客はどんどん話にのめりこんでいけるのである。
壌は蜷川の「十二夜」でも芸達者なところを見せているが、
この「藪原検校」の盲太夫役は、正に当たり役。
彼の豊かな演劇経験があって初めて成しえる本物のワザである。
それにしても、井上ひさし。
江戸に初めて出てきた主人公が、「これが江戸なんだー」と体感する場面の鮮やかさよ!
「この頃、橋の下には漁師が」「市場では威勢のいい掛け声が」「物売りが」「鐘の音が」などと、
「その他大勢」みたいな役の人を一人ひとり紹介しては声を出させ、
そして最後に
「・・・ということで、当時この橋を渡ったときに聞こえてきた喧騒とは、このようなものでありました」という壌のセリフを合図に、
彼らは一斉にわめき始める。
都の喧騒。田舎にはない活気。
オペラで、一人ひとりがソロでモチーフを歌っていたと思ったら、
全員が合唱したら見事にハーモニーになった、みたいな。
それを「ハーモニー」じゃなくて、「喧騒」に仕上げるなんて・・・。
後半は、語りの壌さんにも少し疲れが見えてくる。
しかし出番自体もだんだん少なくなる。「リア王」の道化みたいなものだ。
その分、線の細いただの「いい人」だった塙保己一(段田安則)が存在感を増し、
坂を転げ落ちるように主人公・古田に悲壮感が漂ってくる。
衝撃のラストシーン。
それに対する民衆の「慣れ」まで描く井上ひさしの鋭い眼。
このお話は、なんと34年も前に書き下ろしたものだという。
今回、蜷川幸雄の新演出で、久々再演となった。
野田秀樹の「白夜のワルキューレ」にもいえることだが、
「ちょっと昔」の作品のもつ、現代をはるかに超えたアナーキズムに、
私はいつも頭を殴られる。
70年代前後の活気というのは、ものすごいものがある。
これ、つまり「団塊の世代」のエネルギーだろうか。
井上のみならず、演出の蜷川もまた、この世代である。
「俺はもう長くない」から「死ぬまでにやりたいことをやる」とかいって、
そんじょそこらの若者より、ずっと精力的に、型にはまらぬ活動を続けている。
「小さくまとまってんじゃねえ!」
誰かのセリフじゃないけど、そんな声が聞こえてくる。
大砲一発ぶちかまされた気分である。
じっくり腰を落ち着けてレビューを書こうと思っていたところに
「熊川負傷」という私にとっての一大事が起こってしまって
ちょっとアップアップな精神状態が続きました。
5月10日に観劇したのにブログへの上げるのが遅れ、申し訳ありません。
気がつけば、31日が楽日!
舞台はもう4回を残すばかりになってしまいました。
あと少しですが、時間のある方は、ぜひシアターコクーンへ足をお運びください。
その後、6月5~10日に大阪公演がイオン化粧品シアターVRABA!であります。
関西方面の方は、こちらへどうぞ。
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