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「KEAN」

「KEAN」は、
200年前のイギリスの、
「稀代のシェイクスピア役者」と呼ばれたエドマンド・キーンの物語。
彼が舞台に上がると、いつも大入り満員、
入りきらない客が劇場の周りでとぐろを巻くくらいだったという。
だがその私生活はめちゃくちゃ。
酒は飲む、女には色目、いつも借金まみれ。
舞台に立てば、貴族や王族からも喝采を受けたけれど、
そこらを歩いているだけなら、
ただの鼻つまみ者。
この話は、そんなキーンと、
キーンを贔屓にしているイギリス皇太子と、
キーンの舞台に通い詰めているデンマーク大使夫人エレナのお話。
この話のキモは、
「役者も、皇太子も、大使夫人も、みんな“見られる”人生をもっている」
ということ。
今でいえば、
テレビに出てる人っていう感じでしょうかね。
バラエティで、国会議員も、お笑い芸人も、アーティストもいっしょくたにされるでしょ。
あのイメージ。
そして、
“見られる”自分と、“本当の”自分がかけ離れていく恐怖や、
“見られたい”自分と“見られたくない”自分との葛藤を、
彼らは常に感じながら生きている、ということも思わせてくれます。
でも・・・。
はっきり言って、簡単に飲み込めるような、わかりやすい話ではありません。
役者人生とは、
人に見られる人生とは、
本当に自分が望む人生とは、など
とても深い話なんだけど、
観客が、自分の置きどころを決めてかからないと、
右往左往したまま話が終わってしまうかも。
なので、
これから見る人に、少しでもガイドになれば、と思ってここから先は書きます。
まず、
「リチャード三世」「オセロー」などは劇中劇でたっぷり、
キーン役・市村正親の舞台をいろいろ観られる、という、
実はかなりオイシイお芝居。
「ロミオ」や「ハムレット」など、扮装して楽屋で練習、
というのもあります。
ただ、シェイクスピアの引用は
登場人物たちの日常の「セリフ」にもたくさん出てくるので、
シェイクスピアの劇をいくつか見ている人なら、
「あ、あれはヴェニスの商人だ」とか
「あ、あれはリア王」とか、
その場面も思い出せるしそのセリフに託された意味もわかると思うけど、
そうでない場合、
スルーしてしまうかもしれない。
次に
「一流の役者をイギリス皇太子が贔屓にしている」というと、
かなりステイタスのお高い上流階級のニオイがするけど、
キーンと皇太子は、もっとヤクザな関係。
階級社会であるイギリスの頂点と最下層という隔たった身分の2人だけれど、
そこは兄弟分というか、
キーンは皇太子の権威をカサに、やりたい放題、
皇太子はいつもキーンの尻拭い。
「ヘンリー四世」というシェイクスピアの戯曲に出てくる
ハリー王子とフォルスタッフの関係に似ています。
しかし、
なぜこの2人は「友達」なの?
ここが日本人にもっともわかりにくいところ。
「リア王」の中の、リア王と道化の関係もそうだけど、
身分の高い人というのは、
そばに最下層の人間をはべらせて、好き放題させることが多いみたい。
おそらく、
がんじがらめの生活にあって、
「本音」でつきあえる人がほしいのでしょう。
追い落とす、落とされる、みたいな利害関係がない、
どこにもつながりがない、というのが、
変な警戒感なくつきあえる自由を感じさせてくれるのかもしれません。
この舞台を見る時、
皇太子を「身分が高いからお上品な人だろう」と思っちゃダメ。
時代劇によく出てくる、
夜な夜な仲間と盛り場にくりだしては酒と女にうつつをぬかし、
気に入らないとバッサリ、切捨て御免!みたいな大名の息子のイメージで。
いつも
「なんかおもしろいこと、ないかなー」と思っていて、
キーンと冗談言い合い、バカなことしでかしちゃうのが大好き。
そして、彼が興味を持ったものには、服でも靴でも女でも、
みーんな自分もほしくなっちゃうっていうしょーもないヤツです。
そうやって、
キーンも皇太子も好きになっちゃったのが、
デンマーク大使の夫人・エレナ。
エレナはキーンのお芝居が大好きで、いわゆる追っかけ状態。
「舞台の上の役者としてだけよ」とかいいながら、
どこかでキーンを等身大の男としても感じている。
けれど、
人妻だしー、
身分がちがいすぎるしー、
・・・ンでも、それって、刺激的~、みたいな。
身分が高いので、
自分から「好き」って言ってしまうようなリスクは負いません。
「あなたがしつこいから、来てあげました」的ツンデレタイプ。
キーンが他の女性に興味があると知るや、
もう怒る怒る。
「私がどんな思いして、ここまで来たと思ってらっしゃるの~!?」
「あなたがそーくるなら、ワタクシ、皇太子とイチャイチャしてしまってよ!」
みたいな。
プライド高い女性の嫉妬は、コワイですよ。
キーンは、
エレナとの関係に執着するあまり、
「役者」人生と「実」人生とのバランスを崩し始めます。
皇太子、エレナ、キーン。
3人の恋の火花が、舞台と客席との間でバチバチ散ります。
そこにからむもう一人の女、というのが、
女優志望のあけすけ女の子、アン(須藤理彩)。
「私、女優になりたいんです!」というわりには、ぜーんぜんダイコンさん。
いわゆる押しかけ女房タイプです。
全体的にいって
ものすごくいいお芝居でした、という感慨はなかった、というのが
正直な感想。
「シェイクスピア」っていうから、文学の香りかしら?と思ってくると、
かなりチガイます。
「シェイクスピア」の猥雑な部分全開、
見ようによっては、ただのドタバタ劇です。
この戯曲を、フランスの大哲学者「サルトル」が書いたっていうから、
二度ビックリ。
まあ、だから小難しい部分があるのかもしれませんけどね。
役者のほうにも、ちょっと不満が。
演出のウィリアム・オルドロイドのたっての希望でエレナ役となった高橋恵子が、
一つ目のブレーキ。
皇太子役の鈴木一真が、二つ目のブレーキ。
高橋はセリフを噛むところがかなりあり、気になった。
それより、1人したり顔なのが話の流れに棹をさす。
もっとはじけて、
顔は美しく上品そうに見えて、実は浅薄、というニ面性を
もっとコミカルに演じる必要があったのでは?
鈴木は
「ハッハッハッ」と笑いながらサロンに入ってくる、
その出だしでもうアウト。
どう見たって“皇太子”じゃない。
後半にかけ、尻上がりに調子をあげてくるものの、
高橋と同じく、
「上流階級の人たちと一緒のとき」の高貴さと
「KEANと一緒のとき」の愚劣さという、
イヤラシイほどのニ面性がほしかった。
がんばったのが、須藤理彩だ。
失礼ながら、まったく期待していなかったのだが、
セリフもなめらか、笑いのツボも押さえ、
いい味を出していた。
もっとも、この中では一番等身大の、難しくない役ともいえるが。
身分が違っても内面の共通性に誘われひかれあう3人。
しかし一方では底なしの反発を持たずにはいられない。
高貴なものに憧れながら、高貴なものを貶める、というKEANの抵抗、
高貴なものの隣りにいながら、絶対に受け入れられない出自、というKEANの絶望、
そこに気づきながら彼を愛し、捨てる上流階級の人々の残酷さ。
この複雑で、人間臭く、一筋縄ではいかない濃い人間関係は、
日本人にはわかりにくいんじゃないかなー、
・・・と思った次第です。
市村さんが実際には一度も演じたことのない、
「マクベス」「リア王」「オセロー」「ヘンリー四世」の片鱗を見られる、
そこは捨てがたい。
彼、オセローもやりたいけど、イアゴーもやりたいらしいですよ。
「KEAN」は東京・天王洲アイルの銀河劇場で、10月19日まで。
その後23日より兵庫県立芸術文化センターで26日までです。

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