すべてはHideki Nodaという男の頭の中にある。
母国語でもない英語を操り、
演劇の国・イギリスのキャストやスタッフに
「頭の中」の世界をきっちりと伝えていく能力。
それだけでも、野田秀樹という男の能力の高さがわかる。
その上、
料理するのは「源氏物語」だ。
狂言界のプリンスであり、世田谷パブリックシアターの芸術監督でもある
野村萬斎氏の発案を受ける形で、
能「海人(あま)」と「葵上(あおいのうえ)」を現代的にアレンジするという
「現代能楽集」の一環として、
彼は、「源氏物語」の中に潜む、「男の甘え」「女の甘え」に鋭くメスを入れる。
「光源氏は『美しい男』だったかもしれないが、
それがどうして『非の打ちどころのない男』にまでまつりあげられるのか?」
光源氏を、机の上に足をドッカとのせて、ふんぞり返る『日本男児』の象徴と見、
「そんな男をあがめ奉る女のほうにも、罪はある」と
作者・紫式部の描き方をバッサリ、世界的古典に真っ向勝負を挑む。
あらすじはこうだ。
ユミという女(キャサリン・ハンター)が放火殺人の容疑で逮捕される。
しかし、ユミは
「私は、帝(みかど)の思いもの。私は帝の子どもを産んだ。
私は、海の中に落ちた宝物を取ってくる代わりに、自分の子どもを認めさせた」
・・・などなど、ワケのわからないことを言って、自分がユミだと認めない。
警察署長(グリン・プリチャード)は、
「痛い目にあわせれば、すぐに吐く。証拠はそろってる。ヤツはクロだ!」の一点張り。
検察官(ハリー・ゴストロウ)は、
「私は真実を明らかにしたい」と、精神科医(野田秀樹)に精神鑑定を依頼する。
精神科医は、女との対話の中で、
女が自分の人生と源氏物語の女たちの物語を重ねていることに気づく。
ある時は、密かに囲われた夕顔に。
ある時は、年上の愛人である、六条御息所に。
そして、ある時は、藤原不比等の息子・房前を産んだとされる、
身分の低い海人の女に。
「すてきな人なの。
あの人に声をかけられたら、どんな女だって、ついて行くわ」
舟遊びをしながら、夜空に打ち上げられる花火を楽しむ
恋人たちのめくるめくひとときの描写が美しい。
そこに、携帯の着信音が・・・。
女にとって、男はオンリーワンだが、
男にとっては、ワンオブゼム。
幸せの絶頂のその瞬間にも、「妻」の影が割り込んでくる。
賀茂の祭りで六条御息所の牛車と葵上の牛車が道を譲らず、
お互い源氏の子どもを身ごもりながら、正妻と愛人が対峙する場面も秀逸である。
長い布をベールのようにかけた大きな日傘を牛車に見立て、
互いの顔の見えぬまま、角を付き合わせるようにしてゆっさゆっさとこぜりあう。
一方が愛人(キャサリン)、一方が正妻(野田)とわかった時、
あわてて互いを紹介する源氏(ハリー)のぎこちなさは、
バレエ「ジゼル」で、
ジゼルがアルブレヒトに婚約者がいると知る場面をほうふつとさせる。
葵上を演ずる野田の、いやらしいほどの落ち着き払いよう!
正妻の誇りと意地が炸裂する。
それまでおとなしめの「精神科医」だけを演じていた野田が、
「夫は浮気している」ことを知った妻、
それも身ごもった妻になったあたりから、
物語の歯車はガラガラと音を立てて動き始める。
突拍子もない、かけはなれている、と思っていた
「海人」の話、「源氏」の話、そして「ユミ」の話が、
糸がなわれるように一つに紡ぎあがっていく。
夫の携帯を奪い取り、愛人に電話をかけまくる妻。
「Who are You!」とたたみかけるくだりは、
単なる無言電話よりずっと恐ろしい。
そんな妻をなすがままにして、横にたたずむ無責任夫。
この構図には、背筋が寒くなるほどだ。
今までにも中絶を繰り返していた愛人(キャサリン)は、
今回が最後のチャンスと結婚を望んでいたけれど、
やはり堕ろすことにする。
その悲しみと、
鞭の一振りのように浴びせられた正妻からの罵声に、
愛人は夜叉となり、般若となり、
正妻にとりついてしまう。
しかし、これは六条御息所の話ではない。
現代の、ユミの物語。
死んだのは、正妻ではなかった。
野田は、実際に日本で起こったある事件をもとにして、
ユミの罪とともに、その罪を犯させた「二股男」の大罪を告発している。
「なぜ、ユミは4人殺した、というのだろう?」
最後の最後に、
精神科医が意識の奥深くに潜り潜り、
「4人」の意味を知る幕切れが切ない。
海人が「子」のために自分を犠牲にしてまで「宝」を探し出した、
という能「海人」の物語が、
ここで活きてくる。
海の中を「Diving」する、その表現方法が素晴らしく、
シアタートラムの小さな舞台は、一瞬で大海原の底に変身する。
「源氏物語」は読んでいるが、
こんなに痛ましい女の話として迫ってきたことはなかった。
きっと私の中にも
「男を甘やかす」女がいるのだろう。
最初に読んだ中学生のころなど、
消え入るように死んでいく薄幸の美女・夕顔の章は、
「源氏と恋ができてよかったね」みたいな感想だったように記憶している。
この、女性の子宮をえぐり出すような感性が、
Hideki Nodaという男の中にあった。
何という、想像力。
そして、何という構成力。
英語劇と、携帯の着信音と、和楽器による囃子とが
違和感なく結び合う。
作者・演出家としてだけでなく、
野田は役者としても見劣りしない。
コクニーなまりまで取り入れた流暢な英語と
これでもう50過ぎか??っていう身体能力。
そして、彼が演じる「女性」は見事というほかはない。
その裏づけとしての、女性の感情のヒダを寸分も見逃さない観察力。
恐れ入る。
イギリス人の男2人、女1人、そこに日本人の野田1人。
全編英語だけれど、「わからないのでは?」の心配は無用。
電光掲示の字幕も出るし、
何より身体の表現がすばらしいので、
コトバを越えて内容が魂に迫る。
「The Diver」は、10月13日まで、東京・三軒茶屋のシアタートラムにて。
小さな小屋は満員で、立ち見も。
しかし、見る価値はある。
「想像力をかきたてる」芝居。
また、「源氏物語」を読んでみたくなった。
- 舞台
- 24 view
この記事へのコメントはありません。