ケネス・ブラナーが主演・監督した映画「ハムレット」は、
「ハムレット役者」の一人を自負するケネスが
「一つの場面も一つのセリフもカットしない」と決めて製作した長編映画です(1996)。
前編・後編に分かれるという映画なんて、今どき珍しい。ほとんど舞台感覚です。
とはいえ、映像世界ですから、舞台装置は思いのまま!
インサートカットでセリフのないシーンの心理描写にも幅が出る。
というわけで、ここではオフィーリアの心理がとてもよく描かれていたと思います。
原作では、オフィーリアってけっこう出番が少ないんです。
気がつけば狂乱、あっという間に「死んでしまった」という知らせが来てしまう。
「尼寺へ行け」といわれただけで、何で死んじゃうの? という
初めて原作を読んだ時の感想は、決して私だけのものじゃないはず。
ケイト・ブランシェットが演じるオフィーリアは、最初からどこかびくびくしています。
その国の王子に見初められた喜びは、同時に緊張ももたらしているのです。
父ポローニアスは言います。
「どうせ遊びだ」
兄レアティーズも言います。
「今は本気かもしれないが、王子という立場は好きだ惚れただけじゃままならない。
ほいほいついていったら、傷つくのはお前だよ」
でも、オフィーリアは思う。
「でも、殿下はたくさん手紙をくれた。愛の言葉もいただいた。あれが全部嘘だというの?」
幼い彼女の頭の中は、大混乱。
それなのに、父親はハムレットの狂気の理由を探るため、こんな少女に芝居を強要するのです。
「もうお別れしますと言ってみなさい。手紙も全部返しなさい。
その時、王子はどんな顔をするか、この父が見届けるから」
すると恋人のハムレットは、本気か狂気か「お前は貞淑か?」などと自分を罵る。
「愛してなどいない」「尼寺へ行け」と突き放す。
そして、大好きな父親ポローニアスは、最愛の恋人ハムレットによって殺されてしまうのです!
彼女の小さな心臓は、あっという間に張り裂けてしまったでしょう。
当然です。こんなに可哀想なオフィーリア。
彼女の目で見た世界をおしえてくれたのは、ケネスでした。
ケネスが監督をしたハムレット関連映画には、
「世にも憂鬱なハムレットたち」があります。
私がここまでハムレット漬けになったきっかけは、この映画かも。
ハムレットの劇のためのオーディションをして、
いろんな役者が、様々な人生模様を抱えながら一つの場所に集まって稽古する話です。
最後に、ほんとに劇をやるんですが、演出がけっこう奇抜。
「あ、これでもハムレットなんだ。セリフは変えないで、いろんな演出ができるんだ」と思った。
これは、後に蜷川幸雄の舞台を見るときに、
すっと入っていけたバックグラウンドになったような気がします。
いろいろな「ハムレット」を観た後で鑑賞したら、また違った感想を持つかも。
*2006年5月23日と28日のMixi日記をもとに、書き直しました。
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