新国立のトピックス続報です。
新国立劇場では「わが町」の主人公・エミリー役とアンサンブルのBoys/Girlsについて
オーディションを行うそうです。
我こそはと思う方、どしどしご応募ください。
オーディションは3月、応募締めきりは2/19なので、準備はお早めに。
さて、
戯曲「わが町」(「ソーントン・ワイルダー戯曲集1」鳴海四郎訳、新樹社)
を読んだときの感想文を見つけたので、転載します。
(転載にあたり、少しスリムにしました)
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不思議な本である。
116ページの本文(戯曲)に対し、序文が11ページ、註に至っては60ページもある。
他に解説が5ページ、訳者あとがき4ページ。
全200ページのうち、中身は半分といったところだ。
あまり「註」に振り回されては、
戯曲自体のリズムや魅力がズタズタにされるのではないか、とも思ったが、
序文を読むと、これは演劇界にとって重要な戯曲らしい。
やはり「註」をないがしろにできない。
私は膨大な註を引きひき、
社会背景や作者の意図に注意しながらこの戯曲を読んだ。
もし、この註がなかったら、
単なるホームドラマと思ってしまったかもしれない。
この作品が
小さな町の隣同士に住む男女の結婚を題材にしながら、
「人間は壮大な、宇宙的な、時間の蓄積の中のほんの一時代に生き、
しかし魂は永遠にながらえ続ける。
魂にとって、時間の前後などなんでもない」という壮大なテーマをもっているとは、
まったく思いつかなかったと思う。
そして、劇のスタイルの斬新さも、
戯曲を読んだだけでは実感できなかっただろう。
舞台装置や小道具が、まったくといっていいほどない。
数少ない道具(机とか脚立とか)さえ俳優が動かすよう指示されていて、
裏方たちの組合では、
自分たちの仕事を奪われると思った問題になったくらい、
1938年の演劇にとって「事件」だったという。
その異様さは、
文字としての戯曲を読んだだけではなかなか想像できない。
どこにも見えない馬に声をかけ、
見えない台所で見えない鍋をかきまぜる役者たちを見るからこそ
衝撃的なのだと思う。
「プロセニアム」という名の舞台と客席を仕切る飾りワク
(ここで幕が上がったり下りたりする)は、
そこが劇場だけにあるにはあるが、
「進行係」の役者はそのワクを出たり入ったりして、
「舞台上の人間関係」と「観客」の間の厳密な区分を、
あえてとっぱらおうとしている。
これは空間だけでなく、セリフの中でも意識されていて、
演じている時間と観ている時間、
演じている人と観ている人が渾然となるよう、
故意的にしかけていく。
観客の頭は混乱極まろう。
―客席の中に役者が紛れ込んでいて、セリフを言う。
―役者が舞台のへりに腰をかけたり、客席の通路で演技をする。
―客席後方から役者たちがドドドッと駆け下りてきて、
劇場全体が話の空間にのみこまれる。
これらの手法は、
今や当たり前のように観られるものでもある。
でも私が初めて劇団四季の「裸の王様」を見た小学生の時、
二階の後ろの席だった私の、すぐ後ろから
「そうだ、王様はハダカだ!」という大きな声がして、
跳び上がるほどびっくりしたし、
蜷川幸雄の「ロミオとジュリエット」では、
藤原竜也と鈴木杏のキスシーンが、最前列の観客の膝元で行われ、
それがものすごく生々しくてドキドキしてしまった。
野田秀樹の「パンドラの鐘」では、砂浜に打ち上げられた黒く大きい物体が、
役者のひと声で船になったかと思えば、突然爆弾になったりするのも、
小劇団的なスピードに慣れていなかった私にはとても新鮮だった。
こうした舞台に初めて遭遇した時に感じる、常識を破られた衝撃。
あの源が、「わが町」だったのか、と思うと、
演劇を貫く大きな流れを感じずにはいられない。
ギリシャ演劇やシェイクスピアの時代には、当り前のことだったという。
時代が下り、「ホンモノらしく」舞台を用意できるようになることで、
かえって演劇の力が萎えてしまったのだ。
人々の想像力をもっとも刺激する、演劇。
その歴史の厚みと可能性とを、
ワイルダーはこの三幕にこめて書いている。
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