昨日の続きです。
千代美の姉・花枝役は前半が山本麻未と山田千晶。
花枝はダンサーだが道徳心が強く「色気をふりまく女」に対する嫌悪が強い。
この「ダンサー」と「潔癖さ」というミスマッチが
最後まで私の頭の中で分離したままだった。
昭和初期、「ダンサー」はそんなに誇れた職業ではなかった。
女たちは肌を見せないのが当たり前で、
だからこそ男たちは女のうなじや足首の白さだけでもそそられた。
そこを、脚は出します腿も見せます胸は強調します、の商売である。
でも
花枝はダンサーという職業にプライドを持っていたはず。
芸妓が「芸は売っても色は売らず」と矜持を高くするのと同じことだ。
物語の冒頭、
自分は「たまたま」玉の井の近くに住居があるが、
玉の井は「くるべきところじゃない」「ひどいところ」と
吐き捨てるように言うところがある。
それは、彼女たちを嫌悪しているというより、
世間の目に対する恐怖から来ている。
「同じ女と見られてはいけない」
コンプレックスの裏返しが攻撃性になっているのだ。
女が女をけなすとき、そこにはそれだけの理屈があるはずである。
そのあたりが、
山本にも山田にも、いまひとつ理解できていなかったように思う。
妹・千代美の身持ちを執拗に心配するのも、
夫を寝取られてヒステリーを起こすのも、
単なる道徳心や嫉妬・やっかみの類で騒ぐイヤな女にしか見えなかった。
「ダンサー」という職業だからこそ、いよいよ堅く生きなければ、という
花枝の生き方が感じられなかったのは、
非常に残念だった。
主演のお雪も難しい。
女郎に身を落としながらも玉の井に似つかわしくないという、
掃き溜めに鶴、的な清廉さを持ち合わせていなければならない。
だからといって、
すでにこの商売を始めて何年にもなるのだから、
それなりの手練手管や、プロの「しな」があってしかるべき。
その上、
物欲しげでない素人っぽさが受けて人気があるのだから
どれが「真実」でどれが「ポーズ」か、
そのあたりを観客にわかるように演じるのは至難の業である。
前半の清水日向子は、
偶然に出会い、惹かれ合う種田に対する接し方と、
その種田の目前でなじみの竹さんに対する物言いが全く同じで、
いただけなかった。
種田に聞かれたくない思い、あるいは開き直り、など、
工夫次第でどんな「お雪」も作っていけるところ。
商売と心中立てで揺れる女心が演じ分けられるように、精進してほしい。
後半は、藤倉梓。
「一緒になりたい、この生活から抜け出したい」と
種田に対して身を乗り出すようにしてたたみかた時は、
すべてをあきらめるようにして生きていたお雪に燃え残った命の擱き火が
一瞬にして燃え上がった様子がよく出ていた。
それが、
「恋の炎」でなく「まっとうな暮らし」に際する憧れ、
いわばエゴイズムの炎であると伝わってくる必死さであったのがよい。
さて、
男性陣。
男性陣は一人一役。
春・夏・秋と同役で出る人と、役を変えて出る人といる。
私が観た春班では、
永井荷風の分身である作家・永田蒼風に塩坪数馬(夏・秋とも)、
お雪に通い詰める教師崩れ・種田順平に横山達夫(夏・秋とも)、
お雪のひも・重吉に松谷光、
お雪のなじみ・竹さんに日高康平、
お絹のなじみで幾代に乗り換える客・安田に黛一亮、
花枝の夫(千代美の義兄)・中山に斉藤航騎、
千代美と関係を持つ振付師・荒木に清水康弘。
男性陣では、重吉の松谷がヒルのようないやらしさを好演。
ヒモ特有の、脅しと泣き落としという二面性をうまく使い分けていた。
「オレは胃がん」がウソなのか本当なのか、
そこが観客にだけはわかるように演じてほしかった。
また、セリフには抑揚があって、感情がこめられていたが、
他の人がせりふを言っているときの表情に乏しかったので、
そのあたりも工夫して演じるとよくなるだろう。
振付師は一人コメディタッチで描かれており、
その軽い役を、清水はうまくこなしていた。
旧態依然とした和の世界・玉の井にダンスという洋ものの新しい文化、
というコントラストも、同時に利いていたと思う。
出番は少ないが、竹さんも存在感あり。
少ない金でうまく遊んでいく玉の井の常連にリアリティを持たせた。
店の金をくすねてくる安田にも、
坊ちゃん的な無責任さや、年上の女性に甘えたい雰囲気が漂っていた。
男の一面だけが抽出して描かれるこれらの役は、
どちらかというと演じやすいものだろう。
それに比べると、永田・種田・中山は非常に複雑だ。
彼らはすべて対極の生活を持ち合わせている。
永田は
「作家先生」と持ち上げられているが、最下層の遊郭にも通じている。
創作のため、とかいいながら、所詮はエロおやじである。
そこがどれくらい出ていたか。
若い塩坪にとって、老人らしさを演じるだけでもかなり大変だったろう。
太い声でゆったりとセリフを言って好演していたが、
もう少し好色な面も垣間見せてほしかった。
千代美が引き起こしたゴタゴタを解決する場面も、
世話好きの長屋の大家さんみたいで、
千代美を見る目がほとんど孫を見る人の好いおじいちゃんみたいになってしまっている。
「白状するが、お雪を書きながら、千代美を想っていた」という最後のセリフが
「え?そうだったんだ」と思えては、この舞台が成り立たない。
永井荷風の作品である。
男と女の交差点としての玉の井は、社会現象や対岸の研究対象ではなく、
永田の中にうごめく欲望と関連付けて、とらえてほしかった。
中山も、
義理の妹・千代美と「なぜ」関係を持ってしまうのか、
もっとつきつめて役をつくる必要がある。
狭い家のひと間に、布団を並べて眠る男、女、女。
まだエアコンもなかった時代、
汗と寝息とともに、欲望も抑えがたくなる暑苦しい夏の夜が
ちっとも感じられない。
「いい夫」「いい義兄」が
一体いつ、どのようにむき出しの「男」に豹変したのか、
そして、狭い家の中、妻に覚られるまいとおびえつつ
千代美の魅力にも勝てない、
それでもなお義兄風を吹かせる滑稽さ、などなど、
人間の多面的な部分をもっと出したい。
千代美は誰にも束縛されない「新しい女」である。
しかし、おそらく中山にとって、女はみな女でしかない。
今までのリクツで考えれば
一度関係を持った後、強いのは男であってしかるべき。
ところが……という図が、わかると面白い。
千代美と二人きりの場面は、もっといわくありげに演じてよかったのではないか。
この物語の中で、
もっともめまぐるしく立場が変わるのは、この中山なのだ。
主人公になったつもりで自分の中のドラマをふくらませていくといいだろう。
種田は、ずるい男である。
お雪にたくさんのウソをついている。
自分のいる社会では周囲からぼろくそに痛めつけられて、
自分より下の人間のいる玉の井にきて、気持ちを落ち着かせている男である。
家庭を捨ててきた。
職業も捨ててきた。
退職金は独り占め。社会人として何の責任もとっていない。
しかし、
お雪はそんなこととはつゆ知らず、
自分を一人の人間としてみてくれて「あっち側」に連れていってくれる
救世主としてあがめている。
そこがまた、種田の虚栄心をくすぐって、玉の井通いを心地よくしている。
その「ずるさ」が見えてこない。
玉の井は極楽だが、一歩現実を見れば自分に帰るところはない。
金も底をついたら、その後はどうなるのやら。
気弱な教師が人生の岐路に立って大ばくちを打った、
その高揚感や不安が伝わってこないままだ。
お雪の見ている種田しか、観客には見えてこない。
種田の「甘え」をきちんと描かないと、この物語の核心は浮き彫りにならない。
少なくとも、現代性は持ちえない。
そのあたりも含め、
明日はさまざまに映画化・舞台化された「墨東綺譚」を紹介する。
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試演全体を通じての感想
感情のほとばしりはよく出てきたが、
日常のリアリティーがいまひとつ描かれきれていなかった。
自分でも驚いたが、
観客と言うのは、ものすごく些細なところでリアリティーを求めているものだ。
たとえば、
種田がびしょぬれになって、背広の水滴を払うところ。
背広の水滴は払ったが、ソフト帽はそのまま帽子掛けへ。
中折れ部分にたまったであろう雨の水は、背広より多いを思うのだが。
たとえば、
お絹がお玉から新しい薬を飲め、と促されるところ。
粉薬を口に含み、水で流し込む。
ごくんとやったそのときの「味」。
苦かったのか、あまかったのか、むせはしなかったか。
そこで何の表現もなかったことで、ものすごく肩透かしをくらった。
けだし、
「フィクション」とはデフォルメである。
現実なら、苦くても甘くても、それは頭の中だけのこと。
しかし、
観客はそれを、「目」で見たい、「文」で読みたい。
それが「描写」というものだ、と思い知った。
だから、
お雪が最後に亀戸に鞍替えするとき、
「私は死んだんです」と、死んだように無表情に言っても、
それは写実的であってもリアリティーは湧いてこない。
心の中はからっぽで、もう希望も持たない、未来も考えない、
波の間に間に揺られるようにしてどうなってもよい、
そう考えたお雪は、
どんな顔をして、「私は死んだんです」とお玉に言うべきか。
そこに「しどころ」を見出すのが役者であり、
客はそれを観に、お金をはらって劇場にやってくるのである。
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