女性の「働く」と「産む」との問題を、血縁としての「DNA」と、会社組織の「DNA」をかけて繰り広げる演劇「DNA」。
中村ノブアキが青年座に書下ろし、宮田慶子が演出するとのことで、行ってきました。
「社内結婚したら、どちらかが別の部署へ異動」の「どちらか」が女性であり、それは「女は子どもを産む、産休をとる、だから花形部署にはお荷物」だから、という、
もう何十年前の話かっていうしきたりが今も厳然とある会社には、「仕事」にも長年続く秘密の業務があった。会社のためとはいえ、アウトぎりぎりの危ない橋を渡らねばならない社員たち。
「しかたがない」でやってきた男たちに「それはダメでしょ」と異を唱えるのは、これまた新人の女性社員だった。
根来美咲の舞台美術が、シンプルながら日常をうまく表し、動線もスムーズで機能的にも素晴らしかった。家、夫の会社、妻の会社の3か所を、丸い曲線と段をうまく使い、仕切りがないのにリアルに見せている。
ただ、テーマへの斬り込み方は紋切り型で、「女性が働き続けること」に、「家庭が子どもを持つこと」がどう障壁となっているのかという問題については、リアリティがなかったように思う。
少なくとも解決の仕方が陳腐。そもそも、「会社にも家庭にもDNAがある」から始まっている話とはいえ、一方は「法律を犯すギリギリのことをやってまで会社を存続させるか」であり、そのやり方を連綿と続けてきたのが「DNA」と定義されているのに対し、家族が子どもを持つことが同じレベルで「同じ」というのに無理があるのだが、ダンナに「解決方法も同じ」と納得されてしまった暁には、何をかいわんや。彼は、会社でも家庭でも「結局、女は話を聞いてやれば満足するんだ。そうすりゃ結果はこっちになびく」みたいにしか考えなかったように見えた。
このダンナの母親の描き方がまた、「ものわかりのよい女性」のように見えてやっぱり最後は「孫が生まれたら」みたいなことをにおわせるし、主人公の妻だって、「自分は子どもが欲しくない、絶対産まない」が前提になっていて、それは働く母親とのネガティブな親子関係がトラウマになっているからで、今、多くの女性が悩んでいるのは「子どもは欲しいけれど」が前提なのに、この前提だとものすごく特殊な人に見えてしまうよ。
同じような問題を織り込んでいる「なつぞら」は、かなり実情を取り込んでいるだけに、20世紀的な家族劇になってしまっていると思いました。
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