かつて黒澤明が「デルス・ウザーラ」を撮影するにあたり、
ソ連が全面協力を約束したとき、
ソ連の映画関係者に
「映画人は我が国にもたくさんいるのに、なぜ日本人にそこまで肩入れするのだ?」
といわれた担当者が
「では君らも『どん底』や『白痴』をクロサワのように見事な映画にしてみたまえ」
と抗議を一蹴したという逸話を聞いたことがある。
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黒澤明がゴーリキーの戯曲「どん底」を
日本の江戸時代の物語に翻案して作った映画である。
恥ずかしながら初めて観た。
そしてものかきとしたはもっと恥ずかしいことに、
その後ゴーリキーの原作を、初めて読んだ。
どん底改版
原作を読んでびっくり。
黒澤映画、一字一句にいたるまで、ほとんどゴーリキー。
「翻案」というより、「直訳」に近い。
人としてロシア人はいないし、ロシアの風俗は皆無であっても、
これはゴーリキーの「どん底」そのものである。
それでも私たちにその違和感を与えず、
まるで日本人が作った日本の時代劇のように見せているのだ。
まさに「見事」の一言につきる。
大前提として
世界共通で普遍的な物語を書いたゴーリキーが、
まずはすごい、というのも忘れてはいけないけれど、
「男爵」を「殿(との)」として、かつての旗本武士に、
アル中で落ちぶれた「役者」を「歌舞伎役者」の元花形役者に、といった書き換えが
本当にぴたりとはまり、
場末のそのまたごみためのような
貸家というよりホームレスのたまり場のようなところの話として
江戸の人情話が有機的に展開していくのである。
蚕棚のような寝床の、「役者」の居場所にかかった「布切れ」は、
あまりにみすぼらしく破れすすけているので最初は見過ごしてしまうが、
途中から「中村屋」と書かれた幟(のぼり)のなれの果てだと気付かされる。
黒澤の翻案の手法もさることながら、
出演している俳優たちが、これまたゾッとするほどの迫真の演技。
特に「ルカ」(=旅の老人)役の左卜全(なつかし~!)は、
卜全節全開なのだけれど、
ルカって彼以外の誰がやる?っていうくらい適役。
ゴーリキーは卜全にあて書きしたんじゃないかって
それはありえないんだけど、そういわれても信じちゃえるほど。
三船敏郎、山田五十鈴、東野英二郎、中村雁治郎、
香川京子、千秋実、藤原釜足などなど、
誰をとっても演技を超えて、そこに息づいているような空気を醸し出す。
家主(中村)が女房(山田)と盗賊捨吉(三船)との浮気を疑って
破れた障子からぬっと顔を出しているところなど、
その死神のごとき形相だけでうっとのけぞってしまう。
自分を心から愛し、今の境遇から救い出そうとしていた捨吉に
裏切られたと思い込んで恨み、大声で叫びながら彼を告発してしまう
かよ役の香川京子は、「鬼気迫る」と形容した自分が陳腐すぎて恥ずかしくなるほど
目から口から胸から腹から血が噴出すかごとき悲痛さを体現する。
黒澤は晩年の映画製作にあたり、
いわゆる演技の作りこみをしようとする俳優たちを嫌い、
「自然がいちばんいい」「そのままでいい」と
所ジョージなど演技の素人を起用することがあったが
その理由を垣間見た気がする。
なんせ、1957年に、これほどの演技を引き出しているのだから。
彼らはすでに「演技」を超越している。
名優たちの「自然」な「演技」を体験した監督の前に出れば、
どんな「役作り」もわざとらしく作り物に見えたであろう。
ゴーリキーの「どん底」は短い作品ではあるが、
戯曲を読みなれていないと難しく、あるいは想像力を働かせにくく感じるだろう。
角川映画のコピー的に言えば、
これは「観てから読む」がおススメ。
ほんっとに一字一句ほぼそのまま、なので、そこを体験してもらいたい。
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「どん底」ゴーリキーの原作と黒澤映画
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