ミュージカル「シラノ」を見ながら、
私は二つの異なる舞台を思い起こしていた。
一つは、
野田秀樹の「キル」。
シルク(深津絵里)=ロクサーヌ、
テムジン(堤真一)=クリスチャン、
ケッパツ(古田新太)=シラノ。
憧れのシルクに
みじんも「男」として見てもらえないケッパツ。
けれど、
ケッパツが書く代筆ラブレターこそが
シルクの心をとろかし、
彼女をテムジンへと導いていくのを、
ケッパツは恍惚とした思いで受け止める。
なるほど、
だから「広末・妻夫木版」で
ケッパツが勝村政信だったとき、どこか説得力に欠けていたんだ。
勝村のケッパツには、
「ボクなんか」「シルクさんなんて高嶺の花」という、
自分を卑下している感じがなかった。
憧れの君が自分を男としてカウントしない状況だけでなく、
自分が自分をカウントしてない、という下地があってこそ、
この話は無償の純愛としてスタートし、
あとから「ひょっとして」の気持ちがもたげ
封印していた愛欲が湧き上がるところに
ドラマが生れる。
こうして野田は
「シラノ」から出発して、
また違うテーマを膨らませていった。
テーマとしてくくれる、という点では、
「エレファントマン」だろう。
最近では藤原竜也が主演した舞台の戯曲「エレファントマン」である。
容貌から知性のかけらもないと思われていたジョン・メリックだが、
実はシェイクスピアを暗誦し、教会の精密模型を作る達人でもある。
彼が「盲人施設で暮らしたい」と訴えるところには、
シラノが「手紙」や「暗がり」で自分の容貌を相手に意識させまいとしたのと
同じものを感じる。
反対に映画版「エレファントマン」では、
ジョン・メリックは、シラノと同様、自分の外見を恥じている。
心無い男たちに鏡を見せられ、絶望に卒倒する場面は忘れられない。
私は映画版より戯曲版が断然好きだけれど、
この二つは合わせ鏡のようなもので、
両方とも知ることで、問題の深さをひしひしと感じることになる。
コトバというものが、いかに人を虜にするか、
と同時に、
「顔」から受ける印象が、いかに人を左右するか。
その中で
人が本当に幸せになるためには、どんな意志が必要か。
変われるのは、
自分か、他人か。
人間にとって、
永遠のテーマの一つなのかもしれない。
*「エレファントマン」については、
長い文章を前に書いているため、
レビュー、書いたつもりになっていましたが、
さがしても見つかりませんでした(汗)。
今度、改めて書きます。
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「シラノ」と「キル」と「エレファントマン」
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