歌舞伎バージョンを見てきました。
とにかく、七之助の桜姫が素敵です。
きれい、というのもありますが、
非常に正攻法、というか、
セリフも動作も凛としていて、
「そこだけ歌舞伎座」みたいなオーラを発しています。
権助(橋之助)との濡れ場はもうドキドキするほどリアルで、
もー、どーしましょ。
桜姫は、最初の男である権助だけを慕っているのだけれど、
僧の清玄(勘三郎)は桜姫のことを
かつて衆道(同性愛)の契りを交わし、
心中するはずが一人で死んでしまった稚児・白菊の生まれ変わりだと思っている。
現代劇のセルゲイ(白井晃)と違うのは、
「女になって生まれ変わって一緒になりたい」といいつつ死んだ白菊と重ね
この清玄は、桜姫に言い寄る。
徳の高いと思われていた清玄が、色欲をあらわにして破戒に向う、
何かに突き動かされるように我を忘れる清玄を演ずる
中村勘三郎が見事だった。
考えてみると、
この「桜姫」という話は、
人の「欲」が臨界点を越えるときの悪魔性を並べている、
みたいな部分がある。
出てくる僧は衆道も色道もまっしぐらで、
桜姫も出家しようとしてるのに、昔の男と会えたら
その場でナニして出家なんか眼中にないし。
権助も桜姫を好きだ好きだといいながら女郎に売るし、
清玄は白菊が好きだっていったって、先に飛び降りた白菊を追いもしないし。
かつては僧だった残月は、カネのために昔仕えていた清玄を殺すし。
もう道徳的にも社会的にも、罪、罪、罪のオンパレードだ。
その中で、
「私はうるさいのは嫌いだよ」といって産み落とした子どもを邪険にしていた桜姫が、
すべてを失った後、その子を抱いて母となる最後には救いがある。
好いた男のためならば、女郎に売られて恨み言の一つも言わず、
それより他の女といたことのほうが悔しいという桜姫。
「あの人は、また私をどこかへ売りに出すんだろうね……」と
他人事のようにつぶやいていた桜姫も、
自分の家を不幸のどん底に落とした男が
実は愛する権助だったと知り仇を討とうとする。
しかし、だからといってすぐに権助を憎める道理もない。
二度三度と逡巡しつつ、
最後に刃を立てる場面は桜姫の心情が浮き彫りになって秀逸。
桜姫はこの話の中で、
ただ一人良心の「かけら」を持ち続け悩み続けた人なのだ。
清玄と権助が兄弟だったとか、
最後のほうは駆け足にいろいろなことが判明し、
ついていくのが難しい部分もあるけれど、
生への欲と凄絶な死とが隣り合わせの、
激しい舞台だった。
パンフレットを見ると、
この「桜姫」という演目を、出演者たちはみな「難しい」と評している。
笹野嵩史は
鶴屋南北の芝居の面白さは
ストーリーではなく場面場面にあると言った。
意味がわからなくても面白ければいい、
セリフの間をビジュアルで埋めている、と。
人間臭い人間のカタログのようにして舞台は進み、
そのエネルギーが醍醐味ということか。
気になったのは、
緊迫した場面で笑いが生れる点。
たしかにあちこちに「笑い」を仕込んではある。
しかし、
固唾を呑んでみつめるような場面でも、
ワハハ、クスクスと笑いが聞こえてくるのだ。
死んだと思っていた男が起き上がったとき、
舞台奥から幽霊が現れたとき、
幽霊が人間と入れ替わったとき……。
本来なら、戦慄を覚えこそすれ、笑う場面ではないと思うのだが。
ラスト、
音楽にオペラの一節が流れたときも笑いが漏れた。
最後に宙に舞う演出があるのだが、
そこでも笑いが出た。
観客が一つになって舞台にクギ付けになったかというと、
そうではなかったようにも感じる作品であった。
その意味では、
同じ迷宮でも現代劇のほうが、
わからないなりに同じ道をたどっていたような気がする。
「コクーン歌舞伎」であることで、
普通の歌舞伎とは違う演出にしようとしすぎてはいなかったか。
舞台上の制約などもあったろうが、
もっと正攻法に歌舞伎で見せたほうが
現代版との対峙と言う意味では力を持ったように思う。
ただし、
発端序幕、
真っ暗な中、客席の中に死に装束の清玄と白菊の姿が浮かび上がったときの
あの美しさは秀逸。
本当に上から飛び降りてしまった白菊の衝撃もまた、忘れがたい。
この場面は、
長塚版からとったセリフによって作った場面だというが、
歌舞伎表現として実に見事だった。
歌舞伎版の「桜姫」を見て
改めて現代版「桜姫」が本質を見抜いて翻案されていた、ということと、
いずれのバージョンであっても
残月・長浦(ココージオ・イヴァ)のカップルが
大活躍する話なんだな、と思いました。
現代版のマングース姐さんは、最高の造形でありました!
歌舞伎版「桜姫」は、東京・渋谷のシアターコクーンで
今月30日(木)まで。
こちらで7/5のお練りの模様と、舞台の模様とが見られます。
立ち見(当日券)もあります。
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