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「闇の子供たち」


闇の子供たち
映画がとてもよかったので、
原作の小説も読んでみました。
結論からいうと、
これは映画の勝ちですね。
阪本順治監督、
よくぞあそこまで緊張感ある人間ドラマに仕立てあげた、
っていう感じです。
なぜ映画が成功したかというと、
「なぜ、日本人が、タイで?」という点を
日本人の主要な登場人物の生きざまにしっかり描き込んだからだと思う。
小説の中の南部は、単なる飲んだくれの海千山千ジャーナリストだし、
小説の中の音羽恵子も、典型的な正義感あふれるボランティアさん。
カメラマンの与田も、ベテランということになっている。
しかし映画では、
江口洋介扮する南部は、自分の中の悪魔を自覚している。
だからこそ、「闇」に立ち向かう力が湧き、使命感が募る。
生半可な気持ちではやれないことを、なぜ南部はできたのか、
その説得力の違いは、作品の質の高さに深く関係している。
宮崎あおいの音羽恵子も、
「いいことして気持ちよくなりたい」という偽善を周囲に見抜かれている。
「なんでタイなの?」をつきつけられる音羽の戸惑い。
その居心地の悪さ、罪悪感、敗北感を突き放して描きつつ、
無垢な正義感を決して捨てさせない、
その監督のリアリティとロマンのバランスが絶妙だ。
与田もそうだ。
妻夫木聡の与田も、恵子と同じく「自分探し」にタイにやってくる。
何事からも目をそむけていた自分が、シャッターを押す自分に変わる瞬間を、
映画は見事にとらえていた。
小説が、
「タイってこんなひどいところなんですよー」
という描き方だったとすれば、
映画は、
「そんなタイを、なんで日本人はパラダイスっていうんでしょうね」
を問いただしている。
もっといえば、
小説は、幼児への性的虐待の描写が生々しく、
そこが「見どころ」になってしまっている。
だから、売春宿のシーンと、社会福祉センターのシーンとのギャップが
読み手のリズムを狂わせてしまう。
ぶっちゃけ、売春宿のシーンは面白く、
福祉センターのシーンは退屈なのだ。
そして、
臓器売買に関するくだりは、かなりとってつけた感がある。
阪本監督が、この「売春」と「臓器売買」のウェイトを逆にしたことで、
日本人にとっての大きな意味が明確になったといえる。
タイにおける幼児売春の横行は事実だ。
しかし、
多くの日本人にとって、「外国に幼児を買いに行く」人間は人でなしである。
少なくとも、フツーの日本人は、そんなことしない、と考える。
他人事だ。
どんなに悲惨で、どんなに人でなしでも、
「自分にはかかわりのない」世界の話にすぎない。
でも、
自分の子どもの命を救うためだったら、
もしかしたら、もしかしたら、自分だってやってしまうかもしれない。
そう思わせる仕掛けがうまいのだ。
その仕掛けによって、映画は観る者の、観る日本人の、心を深くえぐる。
「臓器売買」それも「生きた人間からの」臓器を摘出する、という話が
事実だという証拠はない。
その点の虚実がはっきりしていないことから、
映画「闇の子供たち」は糾弾される向きがある。
タイにしてみれば、「事実かフィクションか」は大きな問題だろう。
タイが受け入れられなかったとしても、しかたないと私は考える。
でも、
よい映画だ。
「タイは大変」「タイはこわい」「タイは可哀そう」で終わらない、
非常に人道的で、やさしいまなざしを感じる。
でも。
梁石日(ヤン・ソギル)氏の書いたこの小説がなければ、
阪本監督の映画もできなかった。
1を100にするよりも、ゼロを1にするほうがずっと大変。
その意味で、
この小説はすごいと思う。

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